「嘆異抄に学ぶ」聴講記 初日
「嘆異抄に学ぶ」講師:日野賢之師(小松教区、西照寺住職)
全3回の真宗講座の聴講に西堀の浄泉寺へ出掛けて来ました。
「嘆異抄」は以前何度か読んで興味があったのです。
この書の作者は鎌倉時代後期に親鸞面授の弟子の
河和田(現水戸市)の唯円房とするのが定説になっています。
「嘆異」とは親鸞滅後20、30年を経過すると弟子たちが
思い思いの解釈をして、教義が混乱する事態が発生した
のです。このことを嘆き、何とか正しい教義に立ち返って
ほしいと涙ながらに書かれた体裁の書なのです。
内容は親鸞の実子・善鸞の義絶破門事件の後に唯円房
が親鸞聖人から直接聴いた話に基づいて書かれています。
「義絶事件」は建長8年(1256)5月に起こります。
事件から遡ること20年前、親鸞聖人が「教行信証」を
完成させるために東国から帰京した後、関東では異義
異端を説くものが現れて、教義は混乱し門信徒が動揺する
事態となっていました。
親鸞聖人は異義を質そうと、息子の善鸞を父の代理で下向
させたのですが、親鸞面授の弟子たちと反目し、善鸞は
阿弥陀仏の18願(至心信楽の願)を否定して『しぼめる花』
に例えたり、
「真実は夜中に密かに父から子に伝授された」と言いふらして
布教したり、性信たちと鎌倉幕府の下で裁判をして敗訴して
父親鸞から義絶・破門されたのでした。
その後、関東から上洛して親鸞聖人に事の真相を質したのが
唯円を含む門信徒一行だったのです。
使命感に溢れた親鸞聖人の肉声が語られ、当時の気迫がそのまま
短い言葉で記されたのです。8代目蓮如上人はあまりにも刺激が
強すぎるとして、それ以後は長く発禁、封印してしまうのです。
こうして数世紀が過ぎ、漸く江戸中期に荻生徂徠や本居宣長
等の影響で再発見され、香月院・深励や妙音院・了祥ら
一部の学僧によって研究が進められます。
明治時代となって宗門改革に着手した清澤満之師門下の
曾我量深(旧味方村)、金子大栄(上越市)、安田理深、
蓬茨祖運等親鸞教学の先覚者たちによって再評価され広く世に
紹介されたのです。
本書の構成は序と本文18章と結語からなり、前半と後半に
大別できます。前半10章は「師訓編」と呼ばれます。
作者唯円房の耳の底に溜まって決して忘れることができない
親鸞聖人の言葉を集めています。
後半8章は「異端編」とも呼ばれ異義を上げて真実信心を
見失っていることへの批判を述べているのです。
結語は異義の起こっている原因を「信心の異なり」にあるとして
どこまでも親鸞聖人が教えている同一の信心に立ち返るべし
と述べています。
今日はお日柄もよく、会場のお御堂は30分前には熱心な聴講者
で埋まりました。
講師の先生は本山から来られた日野賢之師(小松教区、
西照寺住職)
PCのインターネットで検索したらすぐにヒットしました。
間の取り方が絶妙な雰囲気のある方でした。
講師の地元(小松市)の新聞社に12年間の長きにわたり
「嘆異抄」の濃~い内容を連載し続けた藤代聡麿師の話しが
紹介されました。
藤代聡麿師とは曾我量深師(旧味方村)の直弟子の人なのです。
講話の内容は全3回、「第16、17、18章解釈異義批判から
学ぶ」です。
第16章 「信心の行者、自然に、(原文)」(自分の力を捨て
切れない存在)
第17章「辺地の往生をとぐる人(原文)」(真実の報土の覚り)
第18章「仏法のかなたに、施入物の(原文)」(檀波羅密の行)
第16章からは正直、前半10章の「師訓編」に較べると地味で
退屈なのです。殆どの解説本は第15章で終わっているのです
から。
でも本当はここが核心部には違いないのです。次回を楽しみに
したいと思います。
(おわり)
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コメント
小松市まで行かれたのかと思い、びっくりしました。
「歎異抄」は私も興味はあるのですが、中々敷居は高く、時間も無く、その内に・・・
などと心の中の灯は消さずに抱き続けているといった処です。
まずは、解説書からなどと安直にも考えている邪道な考えですが・・・
noritan様 おはよーございます。コメントありがとうございます。「歎異抄」は何度読んでも
難しいー。歯が立ちません。足がかりを見つけるいい機会と思って受講してみたのです。これから永い付き合いになりそうです。
投稿: noritan | 2012年4月25日 (水) 05時19分