青の時代 マイルス・デイビス
NHKのBSで「巨匠たちの青の時代マイルス・デイビス」
放送していた。1926年(昭和2年)マイルス・デューイ・デイビスⅢ世
(マイルスの本名だ。)-は米国イリノイ州で生まれた。
奇しくも後年一緒にコンボを組むコルトレーンも同年の生まれだ。
MDは歯科医の父と教育熱心な音楽教師の母を両親に持つ裕福
な家庭に育つ。
18歳でジュリアード音楽院に学ぶ為NYに出てきた。
当時のジャズの主流は“ビ・バップ”。
花形プレイヤーのD・ガレスピーとC・パーカーの追っかけになった。
D・ガレスピーの速くて高音域の超絶技巧には、真似してもマイルス
の体力と技術では到底追いつけなかった。
デジー流への模倣は諦め、自分独自のヴォイスを見つけるための
模索と苦悩が始まる。
1945年(昭和20年)終戦の年、マイルスの下宿先に同居した
チャーリーは酒びたりで、いつもマイルスから金をせしめていたから
罪滅ぼしからか?
D・ガレスピーの後任にマイルスを抜擢する。
11月、C・パーカー・クインテットに参加、夢に見た共演を果たす。
この時C・パーカーは唇の筋肉の弱いマイルスにミュートを勧める
のだった。
友人のF・ウェブスターのゆったりペースの演奏をコピーしたり
カップミュートを足でボコボコにして音作りに余念がなかったと
エピソードは伝えていた。
帝王といわれたマイルスの素地はこの頃形成されたのだろうか?
1951年25歳 S・ロリンズ、J・マクリーン等と名盤『ディグ』を録音
(プレステッジ盤)。ハード・バップの幕開けとなる。
このころからドラッグ依存症が悪化、2年間空白期間が続く。
28歳、ついにジャンキー生活から抜け出す。
12月24日セロニアス・モンクとの
『クリスマス・イブの喧嘩セッション』は後の語り草になった。
1955年29歳 7月第2回ニューポート・ジャズフェステバルに
出演し一躍脚光を浴びる。
これをきっかけにメジャー・レコード会社の
コロンビアと契約をすることになった。
マイルスはこの年“ファースト・グレイト・クインテット”を結成する。
メンバーはマイルス・ディビス(tp)
レッド・ガーランド(p)フィリィー・ジョー・ジョーンズ(ds)
ポール・チェィンバース(b)ジョン・コルトレーン(ts)
マイルスはコロンビアに移籍後にもまだ残っていた
プレステッジとの契約履行を消化するため、たった2日間で
4枚分のアルバム録音をやってのける。
これが有名な『マラソンセッション』だ。
1956年(昭和31年)マイルス30歳、セッションは5月11日と
10月26日の2回で行われた。
現在進行形の『ing』がタイトルになった
『クッキン』『ワーキン』『リラクシン』『ステーミン』の4部作だ。
ほとんどがワンテイクで録音された。スタジオ内のハイテンションの
緊張感が伝わってくるのだ。
ピアノ、ベース、ドラムスのリズムセクションは最強だ。
マイルスのミュートトランペットが確立したのもこの頃だろうか?
『リラクシン』の『アイ・クッド・ライト・ア・ブック』は
ミュートが冴えて、とにかくカッコいいのだ。
コルトレーンも5月の演奏に較べて11月は格段に上達した
ことでも知られる。どれも歴史的な名盤になった。
ジャズの天才、帝王といわれたマイルスにも
若い頃は挫折と苦悩の日々があったのだ。
「努力に勝る天才なし」っていい言葉だね。
(おわり)
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コメント
エッ!これは見逃しましたね~~~
再放送に期待です。
私は、ジャズは歴史も楽器の技術的なことも深くは知りませんが、ともかく、聴いていて、心地よく、何か、自分の体の奥が揺さぶられる感覚が好きなのです。
私が若かりし頃、新潟に来た時、当時は県民会館か公会堂でしたが、観に行きました。
投稿: noritan | 2012年4月 8日 (日) 04時31分
再度登場です。
2月19日が再放送だったのですね。
再放送ウォッチに登録致しましたが・・・
noritan様 おはようございます。コメントありがとうございます。
マイルスって最後の最後まで進化し続けた人なのですねー。知れば知るほど、聴けば聴くほど凄いと思います。
聴き直してはまっています。
投稿: noritan | 2012年4月 8日 (日) 04時57分