旧蹟を訪ねて 梅護寺と無為信寺
漸く家の庭の梅が開花した。越後七不思議の1つ旧京ヶ瀬村小島
の梅護寺「八つ房梅」を見に出掛けた。
集落内には青いトタン屋根の大きなお御堂があり、その前に
布教装束の親鸞聖人の像が立っている。
承元3年から4年(1210)小島の里に布教の為、半年間
逗留された。信心を受得した夫婦がお礼に差し出した梅干の種
を庭に植えて念仏を称えたところ、これが芽を出し枝葉が茂り
花は薄紅の八重咲きで1つの花房に8つの実が結ぶようになった。
と伝えられる。
梅護寺は文化10年(1813)西本願寺19代本如上人から
西本廟の聖人等身のご真影(聖人83歳の時の絵姿)を
書写したものが下付され別院資格が授与された。
天然記念物 梅護寺の数珠掛桜 昭和2年4月8日 文部省指定
指定の理由 この桜の花は一様に紅色で花びらは約80枚あり、
花序が数珠のようにうつむいて垂れ下がり、八重桜の中でも
特別に美しい品種なので、昭和2年4月8日国の天然記念物に
指定された。
由来 浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が越後の国へ流罪され、
その間宗教活動のため、梅護寺の付近にこもられた。
この土地から他へ向うときに、手に持っていた数珠を桜に
掛けて「私の教えに誤りがなければ、この桜は数珠のように
なるだろう。」といわれた。不思議なことに、この桜の花は
紅色で数珠のようになったと言い伝えられている。
平成5年7月1日 京ヶ瀬村教育委員会
小島集落を離れて次の目的地・阿賀野市下条町に向かった。
残雪の五頭連峰が輝いて見えた。
無為信寺は親鸞聖人の高弟24輩の一人、無為信房によって
創建された。無為信房は甲斐武田源氏の流れを汲む武家の
出であったが親鸞聖人に深く帰依し、親鸞門下として活躍された。
親鸞聖人が常陸国稲田から京に戻られた後、会津門田一ノ堰に
無為信寺を建立した。無為信房寂後、子孫が断絶した為
本山預かりとなっていた。
無為信寺 真宗大谷派の寺院。開祖である親鸞聖人の高弟
であった「無為信房」を開基として宝暦10年(1760)に水原の
大地主であった佐藤藤伊左衛門(和泉屋)が幕府の許可を
得て水原に中興したものです。
江戸時代後期から明治初期にかけて「徳龍」「行忠」の二人の
高僧を相次いで輩出しました。
この二僧は東本願寺の講師を務め、特に「徳龍」は唯識
(仏教哲学)の分野では第一人者と称されました。
二人をたたえ、境内には荘重な墓碑が建立されています。
また国指定文化財『金剛頂経曼珠室利菩薩五字心陀羅尼品』
(こんごうちょうきょうしりごじしんだらにほん)『悉曇集記上下』
(しったんしゅうきじょうちゅう)『藤原氏系図』の三点、
県指定文化財『古論草』『方便法身尊像』の二点をはじめ、
貴重な文化財が所蔵されています。 水原町教育委員会
今日は古刹の歴史と雰囲気に浸ることができました。(おわり)
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コメント
いろいろ親鸞聖人の歩かれた史跡をたどりそれに纏わる逸話、「八つ房梅」や
「徳龍」「行忠」の二人の高僧を相次いで輩出した越後に
少し誇りのようなものを感じました。
ホントに詳しく調べられており驚いています。
今まで知らなかった世界を垣間見た感じです。
FUKU様こんばんわ。コメントありがとうございます。新しい場所を訪ね歩くってのは何かワクワクしますね。
それにしても昔の人には偉い人がいっぱいいたのですねー。ちょっと感動しています。
投稿: FUKU | 2012年4月13日 (金) 11時19分