角田山麓を巡る一日
先日、県立図書館で1冊の本を見つけました。(「戦国朝倉氏と
越前浜の歴史」山下克典著 下越新聞社刊 昭和53年)
この本には姉川の合戦で織田信長と浅井・朝倉連合軍の攻防
が続き、3年目の天正元年(1573年)信長勢によって浅井・朝倉
連合軍は敗北します。歴史の通説では朝倉本家の血統は絶えた
ことになっていますが、朝倉義景の愛児『愛王丸』は生きており
朝倉本家は途絶えていなかったとする『朝倉始末記』と越前浜
誕生物語が繋がる史実として記載されているのです。
先の戦いで生き延びた朝倉家の家臣総勢28名は子息愛王丸
を擁して、手に入れた小舟で越前国三里浜から岸を離れ、潮の
流れに乗じて日本海を北上しました。そして今の角田岬付近
に上陸します。
風を遮り、下からの攻撃も防げる絶好の場所がありました。ここ
で生き延びる決意を新たにして、収入源として鶏を飼い卵を売り
ながら子息愛王丸を守り続けます。角田山の山腹で一同が
住むに足る場所を切り開き小屋も建てました。
やがて愛王丸が成長した頃、山を下り平地に土地を求めます。
終の棲家に寺を建立し、愛王丸は得度して初代住職となりました。
父・義景を偲び故郷越前国一乗谷で戦火に倒れた多くの家臣の
霊を弔って生涯を送ります。以来19代に及ぶ『西遊寺』と越前浜
の歴史が続いているというのです。
昨年秋に宮前コースから角田山に登った時に中腹に『越前浜発祥
の地』の案内板に導かれて『鳥之子神明社』へ行ったことがありま
した。神社脇に立つ石碑に掘られていた内容と同じだったのです。
点の知識が線で結ばれた感じですね。⇒その時のレポはこちら。
今日の陽気に誘われて、自分の足で越前浜を訪れてみたいと
思ったのです。R402を通って海岸道路から越前浜市民農場
の道に入りました。今は冬菜の収穫で皆さん大忙しのようです。
初めて通る集落内の道は狭くて、徐行しながら進みました。
神社仏閣は大抵集落の高台にあるものです。当てずっぽうに
勘を働かせて高台への道へ上って行くと、果たして在りました。
境内で冬囲い外しの最中のご住職が居られたのです。
「あのー。お参りをさせていただきたいのですがー。」
「はい。どうぞどうぞ。」とお御堂に入れてもらいました。
「西遊寺」は浄土真宗東本願寺派(単立)のお寺です。「単立とは
包括宗教法人に属さない独立した宗教法人のことである。」と
ウィキペデアに出ています。朝倉義景公の娘が浄土真宗東本願
寺派の初代教如(きょうにょ)上人の室(むろ)になり姻戚関係に
あった為、別格寺の扱いなのでしょうか?
一村一寺で越前浜250戸800人の村人全員が檀家だそうです。
境内には親鸞聖人の銅像が建っています。開基は朝倉義景の
実子・愛王丸です。以来19代続く名刹なのですね。
越前浜村開祖の28人衆は村人に慕われ、特に小川、斉藤、金子
姓が越前浜の御三家となり「様」付けで呼ばれるようになったそう
です。
また本の一項に「斉藤家の土着」について書かれているのですが。
(以下引文「ー斉藤家は越前国主朝倉義景の側近であった斉藤
兵部少輔とみるのが正しいと思う。さて、天保12年(1841)に31
才の金兵衛が越前浜から関屋村に出て割元格の庄屋となりー」)
とあります。斉藤金衛さんははじめ金兵衛と名乗っていた
と云いますから、関屋の斉藤様のルーツがここで繋がったよう
ですね。⇒そのときのレポはこちら。
次に向かったのは「鳥之子神明社」です。参道の両脇に立つ
のは狛犬ではなく「鶏」のあ・うん像です。
鳥居には「鳥之子神明社」の石額が懸かっています。鳥居を
くぐると神橋と池がありました。長い参道の両脇には奉納された
燈籠や狛犬の石像がずらりと並び、住民の信仰心が篤いことを
物語っているようでした。
28人衆が角田岬に上陸する際、荒天のために舟が難破しそうに
なったころ、岸から聞えた鶏の声のおかげで浜辺にたどり着くこと
できたというのです。以来この地区では鶏を事のほか大事にして
鶏肉や卵は口にしない習慣が続いているそうです。
越前浜集落内を抜け、一旦R402に出て角田バス停留所前の
信号を右折すると道は角田浜の集落内に入ります。次は願正寺
に向いました。いつもは集落を素通りして角田浜の登山口に
直行するので、集落内に入るのは今回が初めてなのですよ。
そもそもそんな考えが浮かんだのは1冊の本に出会ったから
でした。
「越後毒消し売りの女たち 角海浜 消えた美人村を追う旅」
(桑野 淳一著 彩流社刊 2008年発行)
「ー私がどうしても角田浜に泊まりたいと思ったのは、ここが越後
美人が大挙して他国に売り歩いた「越後毒消し」の本場であるから
であった。宮城まり子が唄う「毒消しゃいらんかね」で一世を風靡
した女達の村がここにあるからであった。彼女らの歌が流行歌
にもなった背景には、越後の美しい年端もいかない女達が全国
をけなげに毒消しを持って行商したからにほかならない。ー」と
著者は語っています。
車1台がやっと通れるような細い集落内の道をゆっくりと進むと
蔵付きのご大層な家が並んでいました。裕福な村という印象
ですね。
宮城まり子の「♪毒消しゃいらんかねー」を知ってるなんて歳が
知れますが。角田一帯は「越後の毒消し」の里だったのですね。
毒消し売りは最盛期には2500人は居たといいます。「角海の
毒消しがそんなに儲かるんなら自分達も」ということで、五ケ浜、
角田浜、越前浜、四ツ興屋村まで女達は皆、荷物を担いで行商
に出たと云います。
道の奥まったところに願正寺はありました。承久元年(1207)
に親鸞聖人が巡教に来られたときに天台宗から浄土真宗に
改宗したという本願寺派(お西)の古刹です。隣の越前浜に対
して角田浜村の成立は古く、「土着の村」だといいます。
広い境内には親鸞聖人の銅像が建っています。山門の彫刻
が見事ですね。江戸時代、角田浜村には廻船問屋もあり
村全体が裕福だったそうです。往年の繁栄ぶりが偲ばれます。
乙始山願正寺27世の耳理師により弘化3年(1846)から慶応
2年(1866)まで21年間筆録された日誌が現存しています。
寺務記録から始まり角田浜の漁村の漁業、製塩、出稼ぎの状況
に幕末動乱にまつわる庶民の暮らしぶりまで詳細に記録されて
いて当時を知る貴重な資料なのです。この『年中故事』は新潟市
の指定文化財になっています。私も図書館で写本を読んだことが
ありました。文語体で書かれているので初心者が読むのにはなか
なか骨が折れるのですよ。
願正寺の裏手の高台に上りました春の陽に輝く広い海とその先
に雪を頂いた佐渡島の金北山が見えました。きれいでした。
さあ、次は「越後の毒消し」発祥の地、角海浜に向う番なのです
が、実はもう角海浜村は存在しないのです。
昭和44年に起こった東北電力による原発設置話しの舞台と
なって以来、設置の是非を巡って平成7年には条例制定による
日本初の住民投票が実施されて反対派が6割を占め、東北
電力側の計画撤回と原子炉設置許可申請取下げに至った経緯
は記憶に新しいところです。
かって最盛期の角海浜には250戸ほどの家屋があったと云う
のですが、今は廃村となり自然の草木に帰してしまったのです。
現在、角海浜村の土地は東北電力の所有地になっています。
毎日職員がパトロールして不審者の侵入をチエックしていると
聞きました。でも、すぐ近くまで行って往時を偲ばれる断片でも
見れるかもしれないと車を走らせたのです。
慶長6年(1601)城願寺、能登国から移転。北陸寺院取次所
となる。(「戦国朝倉氏と越前浜の歴史」山下克典著 巻末
角海浜歴史年表)とあります。
慶長6年というと関が原の戦の翌年ですね。石山合戦で信長
と戦う旺盛なエネルギーを持った教団の急先鋒として活動して
いた城願寺が教線拡大の命を担って無風区の越後へ能登から
海路を北上して角海浜に上陸します。海岸縁の狭隘な土地に
250戸の家屋と5つの寺院が建ち並び、北陸一帯を統括する
宗教都市が出現したのです。
6年後施薬院称名寺が角海浜にやってきます。施薬院の名の
通り製薬による「越後の毒消し」のルーツができました。
江戸時代の延宝2年(1674)に書かれた村内絵図が巻町郷土
資料館に残っているそうです。一度是非拝観したいものです。
時代は下り江戸時代には北前船が寄港して廻船問屋を営む
家も現れ、村は繁盛します。しかし海岸侵食現象が進み繰り返し
起こる「波欠け」によって土地を失う者が増えました。その為男達
は大工に、女達は毒消しの行商にと他郷へ出稼ぎに出かけなけ
ればならなかったのです。
明治に入ってからも「波欠け」による被害は続きます。
「ー原発の話が新潟日報で報道されたのが昭和44年。その時に
村は9戸。老人ばっかりで人口は僅かに16人。これが46年に6人
、49年に2人いたんだけど、とうとう夏に離村して無人村となった。
私はその一部始終をレンズ通して見続けていたんだよ。ー」
「角海浜物語 消えた村の記録」(斎藤文夫著 和納の窓叢書
刊 2006年発行)
この写真集には消え入る村を見続けて、そこに生きる人達の生活
の1コマ1コマを目撃者の目線でとらえた記録が載っています。
写真には一種の郷愁とともに老人過疎の警鐘として強く胸に迫る
ものを感じるのです。
ふとそんなことを思っているうち、五ケ浜集落へ続く接続する道を
見落としてしまいました。主道はいきなり角海トンネルに入ってしま
いました。角海浜はどんどん遠ざかるばかりです。長いトンネルを
抜けると、そこはもう浦浜でした。
そのあと、間瀬集落に出ました。そういえば昨年間瀬集落にA7
を置くジャズ喫茶があると聞き伝えに聞いて訪ねたことがあり
ました。⇒その時のレポはこちら。
間瀬峠を下り樋曽集落に出ました。ピラミッドの端正な姿の
多宝山が見えました。
今日は3冊の本を頼りに、いつも何気なく通過していた角田山麓の
集落を訪ねて、長く過去に歴史が息づいていたことを知ることが
出来ました。
機会があれば今度は角海浜を訪ねてみたいと思います。
(おわり)
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コメント
越後は山が良いと思ったけれど、海もまた良いですね!以前に角田山に登りましたが角田浜もいろんな歴史があるんですね!
静岡の岳人さん おはようございます。“灯台元暮らし”で文字通り麓の集落には目が向いていなかったのですが、濃ーい歴史があったことに初めて気付かされました。なかなかに興味深い話しですね。
投稿: 静岡の岳人 | 2013年3月16日 (土) 17時40分
ひっそりと佇む過疎の集落にそんな歴史があるなんて、何かとても悲しく
時代の流れを感じます。
時代とともに少しずつ忘れ去られていくのでしょうが、
「越後毒消し売りの女たち 角海浜 消えた美人村を追う旅」 や
「角海浜物語 消えた村の記録」 として本に残されていて、何かほっとした救われたような感じになりました。
しかし良く調べられました~ さすが! 凄いですね~♪
FUKU様 おはようございます。コメントありがとうございます。昨日桜尾根から角田山に登りました。雪割草が咲き始めました。オーレンも花盛りです。地元の人に角海浜に行ける道があるかと聞いたら、「あるよ。蛸が獲れたら巻へ売りに運んだり、病人が出れば担いで山越えしなければならないから牛馬の通れる広い道があるよ。」って言われました。(その道の入口は?って聞いたら)「ヤブ漕いで行かないと分からんよ。」だって。相当ヤブ化してるようですね。
投稿: FUKU | 2013年3月17日 (日) 19時37分
おはようございます。いやー 深いですね。頭が下がります。関屋金衛町の由来も分かりました。朝倉氏がルーツなんですね。この回はペーパーに残しておきます。土曜日は久しぶりに休んで「酒の陣」を楽しんできました。11時過ぎに着くともうすでに長蛇の列。会場入りしたのが12時前!腹も減り加減でしたが、味わい始めたら空腹も忘れ、飲みすぎました。(笑)青木酒造の鶴齢は凄い人だかりでしたよ。勢いで1本買い求めました。緑川のブースで売っていた、チロリも買って満足して帰りました。帰宅して横になって目が覚めると、夕刻7時半を過ぎていました。
kazu1954さん こんばんわ。越前浜に行ってきました。この歳になって初めて知る感動がありました。世間は広いですねー。酒の陣に行かれたのですね。俺らも行きたかったなー。でもついつい飲みすぎるのですよねー。(笑)鶴齢に緑川ですかー。通好みですね。
今度そのチロリを持って山でやりませんか?
投稿: kazu1954 | 2013年3月18日 (月) 10時21分