嶽薬師に登る(朴坂山塊縦走 後編)
前方奥に嶽薬師が見えます。今朝まで降った雨で道は緩んで滑
るのです。転倒しないように木枝につかまって、ゆっくり慎重に下
りました。
標高差150㍍を一気に谷に向かって下るのです。途中、細尾根の
岩稜帯を通過します。
緊張の連続で午飯(ひるめし)後の眠気も吹き飛びました。
漸く鞍部に着きました。あこや谷は漢字で書くと悪(あこや)谷と
なります。
「小岩内山 小岩内村ニ在り。山中ニ悪谷(アコヤタニ)ト云ウ深谷
アリ。谷中ニ怪物アリテ人到レバ害ヲ為ス。故ニ恐レテ到ルモノナ
シ。」(越後野志 越後の山旅 藤島玄 著)
越後野志に出て来る人に危害を加える怪物って何でしょうね?
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鞍部の東側が開けています。木ノ間越しに下関方面が見えま
した。ここから次は標高差90㍍の直登が待っています。
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おー!クリタケ発見。いっぱい発生してますねー。美味そうです。
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クリタケは食菌ですが、見た目ほどには旨くないのです。収量を増
やすための雑茸(ざつきのこ)です。煮物とかに合いますね。
急坂は登り切りました。お疲れさーん。ちょっと休憩しましょうか。
おひとつドウゾ。
美味しそうー。じゃぁ、遠慮なく。
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ここまで登り上げれば縦走路の登りはほぼ終わりです。後は緩や
かな道を辿ります。稜線上から荒川を隔てて飯豊方面の眺望が
広がりました。
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杁差岳の頂上付近には雲が懸かっていますね。立ち止まって見
ているうちに、、雲が取れて一瞬だけ山頂が見えました。
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振り返ると辿ってきた縦走路の峰も要害山も遠ざかりました。
山も谷も赤く染まっています。
赤松林の木立の中に4等三角点がありました。三角点の表示板が
なければ知らすに通り過ぎるところでした。「
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龍の軒飾りが立派ですね。龍は荒川を象徴的に顕しているように
も見えました。
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お堂の創建の由来が掲げてあります。
嶽薬師創立 大宝年間 文武天皇御代
大宝年間というと701年大宝律令が施行され、遣唐使が派遣され
た時代ですね。日本建国の初期段階です。随分古い創建ですね。
本堂建立 元禄14年 戌年(イヌ)辛巳(カノトミ)6月8日
昭和53年5月建 医王院
この御堂を管理しているのは医王院のようですね。医王院はどこ
にあるのでしょうか?
村上市の観光協会(神林支所)に聞いてみたのです。
「それはですね。小岩内の集落内に法印様のお宅がありまして。
そこが医王院なのですよ。」
法印様とは。山伏の俗称です。
「近年まで海岸部の漁民にいたく信仰されてきた峰の薬師がある。
岩船郡神林村と関川村の境に屹立する嶽の薬師がそれである。
西南麓の神林村小岩内に当山派修験の医王院があって、山頂
の奥の院の薬師と山麓の「お前立」と呼ばれる里の薬師堂を祭祀
・管理してきた。
大宝年間(701年~704年)の開創という伝えがあり、また山頂
薬師堂は武内宿禰(タケノウチノスクネ)が東征のおり祀ったもの
で、医王院の高橋氏は武内宿禰の一族の子孫であるというよう
な伝えもある。
祭りは5月8日と11月8日で山麓の小岩内・川部・桂をはじめと
する神林村・関川村・荒川町の人たちがこの日を休日にして
登拝した。だが、特筆すべきは、以前はそのほかに下越海岸部
の浜の人たちが盛んにお参りに来たことである。
今の町村名でいうと、神林村の塩谷、北蒲原郡中条町の桃崎浜
・荒井浜・笹口浜・村松浜・紫雲寺町の藤塚浜、聖籠町の次第浜
などで漁師が男女を問わず5月7日夕方までにやって来て、山頂
薬師堂の拝殿に籠り、医王院から祈祷してもらい、お札を貰って
翌朝帰った。
浜の人たちは海の漁でこの山を目標にして、どの方向のどの辺で
魚が獲れるとか、あるいは自分の居場所がわからくなったが幸い
山がみえたので助かったとか、そういうことがあって嶽の薬師を
信仰するようになる。
方向指標の山、漁場確認の目標となる山であることが、航海安全
と豊漁祈願・感謝の信仰を生んでいる。いずれにしてもその大小
を問わず、峰に薬師をまつる薬師岳は孤峰であっても連山の一峰
であっても、三角錘型の突出した姿をしたものが多く、他の山とは
判然と区別できる。平野部から見てそれと判る際立った姿をして
いる。そういう山の頂上に薬師を祀るのである。」
(「越後・佐渡の山岳修験 越後における峰の薬師信仰」
鈴木昭英 著 法蔵館刊)
振り返ると鈴木先生が言われるとおり、黄葉の木ノ間越に嶽薬師
の尖峰が見えました。トンガリ峰には何故か畏敬の念と共に
登高意欲が湧きますね。今日は一日歴史に思いを馳せながら、
いい山旅ができました。
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歩程7時間 (休憩含む) 歩いた軌跡(GPS)
国土地理院背景地図等利用許諾番号2011-005号
唐突ですが、県立新潟高校の正門近くにある戊辰公園の一画に
「色部長門君追念碑」が建っています。最後に色部氏の米沢転封
後の後日譚を一つ。
慶長3年(1598)に上杉景勝の会津国替に同行して、越後の地
を離れた色部氏は米沢に転封になって以後も藩の重臣として活
躍し幕末に至ります。維新の戊辰の役で米沢藩は奥羽越列藩同
盟の盟主として越後方面の警備を担当、色部長門は総督として
出陣しました。
色部氏が守る新潟港で薩摩藩の大軍と遭遇します。そこで壮絶な
戦死を遂げたといわれています。戦後処理が行われた時に色部
氏が責任を取って家名断絶となりました。しかし明治18年に許さ
れて復籍となります。
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昭和7年、関屋戊辰戦蹟保存会によって色部氏が戦死した場所
(県立新潟高校前の戊辰公園)に「色部長門君追念碑」が建てら
れました。石碑には「身ヲ挺シテ新潟警備ノ責ニ任ジ、其安寧(そ
のあんねい)秩序ヲ保持」と、新潟警備に尽くした色部氏の功績
と慰霊の文が刻まれています。
鎌倉時代に加納庄に入部してから、戦国時代に揚北衆として歴
史上に名を残し、幕末維新の戊辰の役まで実に600年もの長い
間、新潟と関わりを持った名将の物語を知ることができました。
歴史に思いを馳せて平林要害山に登るいい旅が出来たと、今し
みじみ思い返してしているのです。
(おわり)
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コメント
しゃくなげ色さま
お早うございます。
山の良さも歴史も満喫できる越後の里山
良きコースと思いますね。
色部長門の事は幾分知って居たつもりですが
改めてより詳しく知ることが出来感謝です。
森羅万象 博覧強記ですなぁ~
輝ジィ~ジ様 おはようございます。コメントありがとうございます。要害山、嶽薬師いい山でした。色部氏の石碑の裏側に回ってみたら発起人には関屋の齋藤様が以下上杉伯爵が起草者で当時の県知事、市長に大将、中将、新潟政財界の人々と齋藤喜十郎氏の名前もありました。歴史の教科書を見ているようで、ちょっと興奮しました。(笑)
投稿: 輝ジィ~ジ | 2013年12月 2日 (月) 08時38分
感服いたしました。
kazu1954さん おはようございます。嶽薬師はいい山でした。県内には峰の薬師が多いですね。米山に粟に白山に。八海山も金城山も。昔は谷川岳も薬師ケ岳って呼ばれて信者が御山駈けをしたと聞きました。日本の御山は巡礼登山ですね。
投稿: kazu1954 | 2013年12月 2日 (月) 16時43分
飯豊連峰はもうすっかり雪山ですね!嶽薬師かなり急登の山ですね。
静岡の岳人さん おはようございます。先週初雪が降りました。家から見える山はみんな雪を被ってモノトーンの世界に変わりました。反対に太平洋側は晴天が続くのですね。お借りした富士山の写真。早速ブログの表紙に貼らせてもらいました。素晴らしいです。
嶽薬師はトンガリ山なのです。尖峰って何故か登高意欲が湧きますよね。なかなかいい山でした。
投稿: 静岡の岳人 | 2013年12月 3日 (火) 19時15分