藤島蔵書館のこと
今夜は泊りで飯なしと聞いて、現地入りの前に道の駅近くのレス
トランでアチェーロラーメンをオーダーしました。アチェーロって何
?「イタリア語で紅葉」です。でも何でイタリア語?
出てきたラーメンは普通でしたが、チャーシュウが肉厚柔らかで
美味しかったなぁ。
オイラの登山のバイブル本「越後の山旅」の著者が藤島玄氏で
す。玄さんは新潟県の登山黎明期からずーっと一筋、登山を開
拓して後進の門人を多く育てたあげた人なのです。ですから彼の
人となりを聞けるチャンスだと楽しみにして来た訳です。
藤島玄氏は昭和21年(1946)42歳の時に日本山岳会越後支部
を結成します。翌年JAC越後支部長に就任するや飯豊連峰を中
心に登山活動を本格化させて、県内登山の振興と後進の指導育
成に尽力されたのでした。
今日の講師は藤島学校で玄さんの薫陶を受けた門人の一人で関
川山の会会長で現関川村長の平田大六氏です。
藤島玄さんは新潟市生まれ。昭和5年(1930)7月に初めて杁差
岳を越えて大日岳、切歯尾根(ダイグラ尾根)を下駄履きで全縦
走した時のことを「杁差岳で露営して7000尺の上でも雨具着用
で天幕なしで寝れるものなり。」(登山ノート)と書き残しています。
杁差岳のイブリとは田の畔を塗るへら形の農具のことだそうです。
関川村では村長さん自らがデザインしたいぶりTシャツをマスコッ
トグッズとして販売中なので買って下さいと。
関川村に春、残雪の頃に杁差岳に出現するイブリの雪型を見て
田仕事を始めるのが昔からの慣わしだったようです。
昭和39年(1964)に第19回国体で山岳競技の会場に飯豊連峰
が選ばれました。前年に東俣川コースが新設され、林道の延長工
事と本流に渡しのゴンドラが取付けられて、権内尾根が頂上まで
伐開されました。
オイラも学生の頃、飯豊合宿でこのゴンドラに重いキスリングとオ
イラ自身を載せてロープを手繰りながら対岸に渡り、急なカモス峰
から権内峰、楓ノ峰、千本峰を経由して前杁差岳の長者平に辿り
着いたのを覚えています。
玄さんが還暦を迎えた昭和41年(1964)夏に県内の岳人たちが
玄さんの功績を讃えて記念の銅製寿像を杁差岳南峰の露岩に建
てました。その場所は玄さんのお気に入りの場所だったのです。
昭和35年(1960)6月56歳のときに「越後の山旅下越地方編」
が富士波出版からが刊行されます。記事には地質、地形、気象、
植物、動物、人文、国立公園内の自然保護規定、登山の道徳、
登山の注意、登山の紹介先、登山案内、山小屋、旅館と広範か
つ詳細に及びました。
「その山の近代登山時代以前にわれわれの先蹝者がどう信仰し
、どう科学的にみたかの古文献を再録しつつ案内する」というも
ので、コースガイドに留まらず美文調に綴られた文章は格調高く
一級の読物としてオイラの愛読書なのです。
「道を失ったときでも絶対沢へ入ってはならない。道に迷う程度の
人では飯豊の沢はこなされるものではない。」(「あとがき」)
「登山中に道に迷った時は、一刻も早く引き返すことで、まちがっ
ても突っ込んではならない。登山道を外れると、ほとんどの山域が
ネマガリダケとハイマツの密生地になっており、踏み跡は全然期
待できない。沢も深く、未知による下降は死への道行となる。」
(解説記事)
藤島玄氏が昭和20年(1945)に家族を関川村に疎開させたの
が縁となって、昭和63年に亡くなられてから、ご遺族が関川村に
寄贈された約6000冊にも及ぶ図書や資料が藤島蔵書館開設に
つながったのです。
講演会終了後は関川村長さんを交えて、玄さんを偲びながら山男
の山談義に花が咲き、夜の更けるまで親交は続いたのでした。
11月15日(日)雨
昨日からの雨は今朝になっても止みません。この雨では無理と立
烏帽子(680m)への登山は中止となりました。
代わりにR113まで戻り、荒川を渡った対岸の川北ふれあい自然
の家(旧川北小学校廃校跡地)の藤島蔵書館に場所を移して講
義を聴くことになりました。
藤島蔵書は書籍数5965冊、その他種々の書類やカタログです。
書籍の主な内訳は山が2250冊、民俗が1600冊、仏教10冊、
辞書200冊で登山ノートはPDF化して整理し、手紙、写真、新
聞の切り抜き等は現在も整理が進行中だそうです。
玄さんはリアルタイムの正確な山情報を把握するために、県内外
の岳人や飯豊連峰の麓集落の精通者から玄さんの手許に絶え
間なく送られて来る情報収集網を構築していたのです。
館内にはその他玄さんが愛用した山道具の数々が展示してあり
ます。
愛用のピッケルとアイゼンにテルモス。みんな懐かしいものばか
りです。昔バイトをして貯めたお金で買った門田のピッケルを大事
に々に亜麻仁油で磨いて使ったものでした。今は何でも軽量化で
便利になったけど…。
これは玄さんが国土地理院5万分の1地図を貼り合わせたものに
山名、沢名を詳細に書き込んで作成した飯豊連峰集成図です。
昭和33年(1958)の初版から20年間に渡り6版の改訂を繰り
返した傾注の力作でした。
オイラも昔、鍛冶小路(新潟市)の学生書房で買い求めたことが
ありました。今でも出掛ける時には1/25000地図に書き写して
活用させてもらっています。
現在の地形図は航空測量に寄る精緻な図版に変わってしまい、
1/50000地形図とのズレが生じているのです。玄さんの遺産
とも言うべき修正図の大情報量を今に活かす為の取り組みが、
県内の岳人さんたちの手で進められていることを知りました。
久し振りにいい話を聴いたので、ランチはラーメンで〆て待つ間に
もう一度いい話しを反復しようと寄ってみたのです。寒くなるこの
時期はみそラーメンが旨くなりますね。
(おわり)
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コメント
貴兄のブログによく出てくる藤島玄氏と事が今回で良く分かりました。大した人なんですね!!それにしても、貴兄もよく研究されていますね。素晴らしい!!!
kazu1954さん おはようございます。山の会に玄さんの親戚という先輩の人が居て、子供の頃に玄さんの自宅へ遊びに行くと、いつも資料に埋もれて執筆中だったと聞かされるのです。格調高い美文調で古き良き時代の岳人の雰囲気が素敵なのですよ。
投稿: kazu1954 | 2015年11月25日 (水) 10時20分
藤島玄氏の事は貴兄のブログに度々出て来るので知っていました、なかなか凄い人だったんですね。有意義な講習会でしたね。学生時代の夏合宿「飯豊連峰縦走」杁差岳の急登が大変だった事を私もいまだに良く覚えていますよ!あの時は異常に暑かった!!
静岡の岳人さん おはようございます。飯豊は青春のよき思い出ですね。失敗も今なら笑い飛ばせます。(笑)静岡の岳人さんが富士山を毎日見るように、オイラも朝な夕なに飯豊連峰を拝んでいます。飯豊は終生の憧れでしょうかね。
投稿: 静岡の岳人 | 2015年11月26日 (木) 07時28分
しゃくなげいろさま
お早うございます。
20年近く前、社会還元として五頭山始め
他の山で山小屋を作る手助けをしようと
当時笹神村役場や村松町の関係部署を回ったことが有りました。
その際、 大洋盛の社長時代の大六さんにも面会
知恵を拝借したものです。
話しは変わりますが、小生最初のリーダー山行は
大六さんグループが開削した三角点と言う
関川村の山でした。
また話は変わりますが博覧強記の貴殿が
イブリ⇒正確にはエブリ 農機具と言うことを
ご存知なかったとは少し驚きました。
輝ジィ~ジ様 こんにちは。いつもありがとうございます。20年前には会にも山小屋建設の機運が高まった時期があったのでしたか。行政側や関係部署と折衝にご苦労されたのですね。大六村長さんからも席上面白い話を聞かせてもらいました。皆年老いたから、これからの新建設は無理でしょうね。柄振りのことは早とちりして別のイメージで捉えていたのです。知識は正確でないといけませんね。反省です。(笑)
投稿: 輝ジィ~ジ | 2015年12月 6日 (日) 08時08分