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2016年5月24日 (火)

此入林道の石垣のこと

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<拡大>5月13日(金)晴れ
埋没したテトラのずーっと沖に角田浜の長い砂洲
が見えていたのはいつの頃だったでしょうか。

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干潮の時に沖合の遠浅の浜と民家の庭石が出現したと本で読ん
だことがありました。

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いつの頃からか、潮流に浸食されて遠浅だった海岸が後退して
今、見下ろしている風景になったのです。以前は海岸伝い歩いて
行けた隣村の角海浜は廃村になり、消えてしまいました。

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御仁の話の続きです。慶長の時代、信長に潰走させられた一向宗
徒たちが角田浜に流れ着いてからの話です。

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角田浜村はすでにあり、平地で耕作に適した余分な土地は能登か
ら移って来た人たちには残されていませんでした。

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そこで山あいの谷間に分け入って耕作地を見つけなければならな
かったというのです。

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ひょうたんぼくの花

2万5千地図を見ると、海岸部の沢のうち此入沢は幅が広くてコ
ンタも緩いのがわかります。

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林道の左右は比較的緩い傾斜地が続きます。今は使われなくな
って荒れ放題の林道と左右のヤブの荒地ですが、昭和30年頃
はきれいに耕作された畑が広がっていたといいます。

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御仁がまだ若かった頃には春になれば雪割草が絨毯を敷いたよ
うに咲き乱れていたというのです。

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先人たちは砂山に植林し荒地を開墾していきました。沢の土砂が
流出しないように石塊を担ぎ上げて土留めにしたというのです。そ
う教えられて崖地を見たらと…

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(クリック)
組まれた土留の石垣が草に埋もれているのをみつけました。よく
見れば手組して積み上げてあるのがわかります。

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今日は普段は見過ごして素通りしていた林道の石垣を見て開墾に
苦労してきた先人たちのことに思いを馳せてみたのでした。

(おわり)






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コメント

さすが、凡人の私とは着眼点が違いますね。
角田は浜と山とがあり、地形的にも、治世に翻弄された人々の歴史の痕跡があるのですね。
何気なく歩いているばかりですが・・・

のりこ様 おはようございます。さすが早起きですね。(笑)オイラは鈍なので教えられて漸くわかりました。花ばかり見てないで今度は足元も見るようにします。岩屋の七面天女の伝説や山頂に長者原山の塚の遺跡があったりで角田山はホントに奥が深い。

投稿: のりこ | 2016年5月25日 (水) 04時38分

そうなんですか!?
越前浜の名の由来とか、
確かに角田は伝説の山ですね!!
そう思うと益々角田に登れる有難さに感謝します。

kazu1954様 こんばんは。角田山頂に「長者原遺跡」(紫灯塚)の由来書の説明板がありました。それによると角田山は古来「長者ヶ原」といわれて西方浄土になぞらえた真言宗寺院の修験者の修法祈祷の僧堂があったと書かれています。中世仏道の聖地だったようですね。

投稿: kazu1954 | 2016年5月25日 (水) 09時30分

しゃくなげいろさま
22日(日)にもI田氏と話をしてきました。

貴殿のレポの中で、I田氏の説明で?が有ります。
慶長年間は秀吉から大阪夏の陣までであって
信長は既にこの世に居ません。
つまり慶長時代では無く、時代的には貴殿が以前学習された
越前浜発祥由来が正解でしょう。
能登では無く矢張り越前だと推量しますが・・・・

角海浜、昔は鳴き砂で有名だったらしいですね。
角田の妙光寺創建は日蓮上人の佐渡配流の後なので
13世紀。つまりその頃には角田浜に集落が有ったと言うことですよね。

輝ジィ~ジ様 こんばんは。いつもありがとうございます。ご指摘ありがとう存じます。御仁はもしかすると「天正」の積りで慶長と言ってしまったのかもしれませんね。(笑)鳴砂とは踏むと「キュッキュッ」って鳴くあれですね。今では図書館の写真集でしか角海浜のことを知るすべがないというのは残念なことです。妙光寺ができる前に既に角田浜村があったと以前本で読んだことがありました。

投稿: 輝ジィ~ジ | 2016年5月25日 (水) 10時43分

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