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2016年5月31日 (火)

佐潟周辺を歩く

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<拡大>5月14日(土)晴れ
鴨の引いた沼は淋しい程広く、畔をわたる風に
葭切の声が早い夏の到来を思わせます。

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今日は吟行句会の世話方当番が回ってきたので、句宿を探して
下見に来ました。佐潟の周辺の砂丘地の集落には神社仏閣が多
と聞きました。その訳を知りたくて…

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佐潟の駐車場脇に五輪塔がありました。五輪塔とは台座に方形の
地輪、円形の水輪、笠形の火輪、請花形の風輪、一番上に宝珠の
空輪の五輪からなり宇宙(=人間)を表すといわれます。

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五輪塔の台座の下が道標になっていて、山崎の庄屋伊藤家が願
主となって天保10年10月に建立したと刻まれていました。

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「右ハにゐがた、西かくた道」と読めます。天保10年(1838)は
天保の大飢饉が北陸にも猛威をふるった年でした。村民の安全を
願って建てられたものかもしれません。

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ゆりの木の花が咲きました。句宿を探してネットで検索したら半径
1km内に神社が8社ありました。宿主に神社が多い訳を尋ねてみ
たのです。

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「この辺りは村の境目で各村毎に社があるからね…。宿の裏手に
も昨年できたばかりの社があるから見ていけば…」といわれたの
で訪ねてみました。

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台座の石が真新しいあ・うんの狛犬が社殿を守って参道の左右に
構えていました。由来書に万治元年(1658)の創建の大山祇社と
ありました。

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「当時の越後平野はまだ3年に1回は洪水につかる湿地であった。
開発をまつ池沼はいたるところにあった。農民は新たな耕地を求
めていた。そして新しく開けた土地に住み着いた農民は心の拠り
所を求めていた。

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「村ができ、庵は寺となった。信心厚き越後の農民にとってそれは
自然のなりゆきであった。」(「越後平野の1000年」榧根勇 著 
新潟日報事業社出版部刊)

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図書館で見つけた越後平野の古地理の本を片手に歩いてみま
した。開墾にまつわる史跡が今も残っていました。開墾の労苦と
救済を願った村民たちのための神社仏閣だったのです。

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歩いてみて、佐潟周辺に神社仏閣が多い訳が何となく理解できた
ように思いました。句宿は旧街道沿いの地蔵様の御座所の近所の
村料亭にしようと思います。

(おわり)


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コメント

なるほどね!歴史の有る越後に神社仏閣が多い理由が解りましたね。今度の吟行頑張って下さい!

静岡の岳人さん おはようございます。新潟県の下越地方は諏訪社と浄土真宗の数がオーバーラップして圧倒的に多いそうです。近世の越後国へ新天地を求めて開墾のために隣国から移入した農民と一緒に教線拡大のために進出した神社仏閣の歴史があったことを知りました。歩くといろいろ面白いですね。(笑)

投稿: 静岡の岳人 | 2016年5月31日 (火) 17時26分

しゃくなげいろさま
最早 学者の域ですね。

輝ジィ~ジ様 おはようございます。いつもありがとうございます。赤塚神社の隣にある大慈寺の山門の梵鐘は謎の爆沈をして戦後引揚げられた戦艦陸奥の屑鉄で造られていると聞きました。歩くといろいろ発見があって楽しいですね。(笑)

投稿: 輝ジィ~ジ | 2016年6月 1日 (水) 08時25分

先の投稿にあるように、
レベルが違いますね!!

kazu1954さん こんばんは。今日は一日笹団子の笹採りに山に入っていたので返事が遅くなってすみません。毎日サンデーだからあっちこっちと興味本位で歩いているのです。でも歩けばそれなりに発見があるので楽しんでいるのですよ。(笑)

投稿: kazu1954 | 2016年6月 2日 (木) 16時02分

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