仏路越(ほとけじごえ)を歩く
矢代田駅(新潟市)から山通りに入りました。菩提寺山(248m)
を越えて橋田字門前(五泉市)に至る4kmの山道を“仏路越(ほ
とけじごえ)”と云い、中世からつい先年まで多くの人々が行き来
した古道なのです。
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山通りに入ると間もなく地層が現れました。『地質は約2250万年
~200万年前)の新第三紀系の泥岩、砂岩、頁岩、火成岩を主体
とし油田、ガス田も分布する。』(小須戸町史)
デブリを越えて山道に入りました。南は加茂川に分断されて、猿
毛岳(327m)から北へ金比羅山(133m新潟市)に至る火山脈
を主体とする山地で高度200m前後の低山が続きます。
途中、菩提寺山(248m)、高立山(276m)、護摩堂山(268m)
が突出しますが東西にわたる小谷に分断されて稜線は連続性を
欠いています。
古絵図にある矢代田一帯の山麓線は海岸線だったことを表して
いて新津丘陵に沿って点在する新津、古津の“津”の地名には昔
港の名残が窺えます。
道脇に“金比羅大権現”の石塔が、山道の辻に“追立地蔵(おたて
のじぞうさま)”が安置されていました。この山域には護摩堂山、菩
提寺山、金比羅山、仏路越と仏教に関係した地名が多いのです。
庚申講、湯殿山講、金比羅講、観音講、寒念仏講、伊夜比子講等
様々な講が当時行われていたようです。封建的束縛の中で慰安
行事として盛んになっていったものかもしれません。
『菩提寺山はまた仏路山、花立山、法華山ともいい、護摩堂系列
山岳修験の一峰で、伝承によれば法華寺という古寺があったと伝
えられている。慶長5年(1600)の上杉遺民一揆の際、新発田周
辺にノロシを挙げた一団が村上頼勝、溝口秀勝両軍の追撃を受
け、逃れてこの山上の法華寺に立てこもり、討滅されたという悲
しい物語を残している。』(小須戸町史)
湯殿山、伊夜比子大明神の碑石が並び、馬頭観音も立っていま
した。鋸の目立職人、薬売り、行商人ら多くの人々がこの山を越え
て行きました。矢代田・橋田との婚縁で馬に乗った花嫁が山越え
をしたかもしれません。
男子は15歳あるいは30歳を超すと一度は湯殿山に参詣に行く
ものだと決めている地域もありました。
巡礼行は農作業が一段落した田植後の夏に行われることが多か
ったようです。
ストーブは暖かいです。今日は寒の戻りで一段と冷えました。
炉の客に榾抱へ来し炉の主
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対岸の菅名山塊がきれいに見えました。何処となく春めいて来た
感じです。
雪遠嶺雪解靄より現れし
予定より早く下山できたので、久しぶりに暖簾をくぐってみました。
老舗の味は〆にふさわしい一品でした。
里山歩きと云えど雪山歩きは結構タフでした。中世から続いてき
た仏路越はひっそりと往時を偲ばせてくれました。
(おわり)
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コメント
越後の山は里山でも私から見ると本格的な冬山ですね!古道だけあっていろいろ歴史がありますね!〆はお馴染み三吉屋のラーメンですね、本当にシンプルな昔ながらのラーメンですね!
静岡の岳人さん こんにちは。今年は山へ出かけようとする日は決まって大荒れになるのでラッセルで輪樏の出番がまだないのです。だから里山歩きばかりです。(笑)三吉屋は子供の頃からずっとの付き合いなので馴染みの味ですかね。
投稿: 静岡の岳人 | 2017年2月12日 (日) 11時19分
寒い中、お疲れ様です。
丁度、事務所の窓から南側に見える里山を歩いているんですね。
〆が三吉のラーメンと言う辺りが、貴兄らしい。
kazu1954さん おはようございます。kazu1954さんの会社は新津でしたね。オイラの高校も裏山が金津山でした。菩提寺山と高立山の小屋は老人の社交場になっていて連日大賑わいのようです。どうもこの所ラーメンづいていまして。(笑)三吉らーめんは極細麺なので座ればすぐ出る、待ち知らずのいいラーメンだと思います。
投稿: kazu1954 | 2017年2月15日 (水) 10時31分
しゃくなげいろさま
歴史のも造詣深い貴殿は博覧強記ですな!
仏路峠その由来勉強させて頂き感謝です。
長距離歩かれましたネ。私にはむりかも!
輝ジィ~ジ様 おはようございます。いつもありがとうございます。仏路峠に石仏に交じって伊夜比子大明神の碑とちょっと置いて馬頭観音の碑もありました。その昔東蒲原の人たちが弥彦神社へ社参のために馬で峠を越えたものでしょうか。最近怠けてピークを踏むよりは峠の碑めぐりの方が面白くなって来ました。(笑)
投稿: 輝ジィ~ジ | 2017年2月23日 (木) 10時11分