写生について
廃城の畔ほつほつ花つつじ
今日は新潟からR49を福島方面へ1時間ほど車を走らせた旧安
田町の安田城址に吟行に出かけました。
廃城のさくら蕊降るよき日和
「俳句の道は ただ これ 写生。これ ただ 写生」とは俳誌雪の
見開き1頁目に記されている先師高野素十の名言です。素十門の
弟子、孫弟子、曾孫弟子たちは90年間ずっと愚直に写生俳句の
伝統を守ってきたのでした。
「(虚子)先生はあくびの出る程長い間、ものを見ていることです
よ。そうすると、いままで見えなかったものが見えてくる。いままで
になかったような心が動いて来る。」
「こんなことをいうと、ああ虚子の写生というものは結局あくびか
と軽蔑するでしょうがね。」とそんなことをいわれて破顔一笑され
たことがあった。(毎日新聞 昭和40年2月6日「あくびと俳句」
よりー「高野素十俳話」稿)
あくびの出る程の凝視とはー「虚子は吟行句会で、決してあちこ
ち、うろうろ歩くようなことをしなかった。腰ををおろして悠然と自然
にひたるようにして句作していた。」と素十は語っていた。(中略)
凝視によって、虚子のいう「いままでになかったような心が動く
まで」に至って、ようやく、句が授かることを俗っぽく「欠伸の出る
ほど」との虚子の行実を伝えている。(「高野素十俳話」稿(11)
雪11月号 蒲原ひろし著)
手折り来したんぽぽの絮飛ばさるる
「句が出来ないときは、こうやって自作自演するんだよ。」と笑って
蒲公英の絮を飛ばしてみせた主宰の姿が素十先師と重なったの
でした。
みな涼し作句心得十箇条
俳誌雪の見開き1ページ目に掲載されている島田青峰先師の俳
句心得十か条はためになりますね。
句材に向かうといつも右往左往してばかりいるオイラが「あくびの
出るほど悠然と構えていられるようになるのには、後どれ位掛か
るものやら。
・雪形の消えし田の神お迎へす
・用水のごんごん流れ田植どき
・鷺がきて鴉が見張る大代田
・菱ヶ岳大日山の緑立つ
写生句の旅はまだまだ続きます。
(おわり)
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コメント
なるほど句作は「ただ これ 写生。これ ただ 写生」ですか!・・・納得!哲学的ですね!
静岡の岳人さん おはようございます。素十門では、よく「俳句以前」といいます。作句には作者の為人(ひととなり)が出るものだから、日頃の鍛錬が必要だというのです。懸賞俳句などには見向きもせず、独立独歩吟行して写生俳句を追求するストイックさが魅力?の一門なのです。(^^)
投稿: 静岡の岳人 | 2018年5月24日 (木) 16時09分