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2018年7月 7日 (土)

光明仏寺を訪ねる

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6月15日(金)晴
真更川から北小浦へ抜ける縦貫道を走り案内
板を左に入ると間もなく寺院が出現しました。

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「光明仏寺」の案内板を左に入りました。弾誓上人が檀特山西山
院に草庵を結んだその年の天正19年(1591)に真更川の山居
に分け入り光明山に小庵を建ました。

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光明山と檀特山を日夜往還し、時ごとの勤行は晨鐘は当山、日
中は檀特山西山院へと両所を兼任していたと、宿の主人の話で
した。毎日朝昼往還するのは距離的に無理があるので、絶えず
行き来していたということでしょうか。

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弾誓上人は岩屋口で弥陀の来現に会い、弥陀の秘訣を受けた後
慶長2、3(1597~1998)年頃に佐渡を去りました。この堂は元
和6年(1620)に二代担唱と三代長音によって建てられました。

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真更川山中の状況がどうであったかという、山居の光明仏寺の由
来が書かれた「弾誓寺由緒並末寺支配所由緒留帳」に本堂は四
間半に三間半、本尊は一尺五寸の音阿上人作(相川弾誓寺第三
世)の阿弥陀如来坐像。(中略)

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霊宝の品は真更川の三十郎(村の草分け・旧家土屋三十郎家)
に預けている。境内屋敷は東西四十五間、南北六十間で、これ
は元禄6年(1693)に真更川村中より証文をもって念仏堂受付に
なった、と記す古文書が残っているそうです。

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現在はガランとした空き家然としていて、壁には来訪者の落書き
だけがやたら目立つばかりでした。

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刻銘が明瞭な浄厳上人の利剣名号塔がありました。利剣とは不
動明王が持つ鋭い剣先という意味です。

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右側表に天保十己亥(つちのとゐ)年八月と読めました。前年の天
保9年には上山田村(旧羽茂町)総代となって佐渡をゆるがす事件
となった善兵衛らによる「天保一国騒動」が起きていました。

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法国弾誓光明仏の六字名号塔が建っていました。左の石仏が弾
誓上人でしょうか。

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名号塔の左側表に「浄土宗鎮西白旗流一向専修念仏道場」と刻
字されてありました。

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参道入口付近に建っていた石塔の右側表に明治29年徳島の行
者笠掛澄心(かさかけちょうしん)とあり、岩谷口まで38町、真更
川まで18町と刻字が見えました。

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修験者はここをベースに険しい道を上り下りして金剛山、檀特山、
金北山へと三山駈けをして山岳修行をしたのでしょうか。

(北佐渡紀行 その7)
(おわり)

参考図書 越後・佐渡の山岳修験 鈴木勝英著 法蔵館
       地蔵の島・木食の島  田中圭一著






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