光明仏寺を訪ねる
「光明仏寺」の案内板を左に入りました。弾誓上人が檀特山西山
院に草庵を結んだその年の天正19年(1591)に真更川の山居
に分け入り光明山に小庵を建ました。
光明山と檀特山を日夜往還し、時ごとの勤行は晨鐘は当山、日
中は檀特山西山院へと両所を兼任していたと、宿の主人の話で
した。毎日朝昼往還するのは距離的に無理があるので、絶えず
行き来していたということでしょうか。
弾誓上人は岩屋口で弥陀の来現に会い、弥陀の秘訣を受けた後
慶長2、3(1597~1998)年頃に佐渡を去りました。この堂は元
和6年(1620)に二代担唱と三代長音によって建てられました。
真更川山中の状況がどうであったかという、山居の光明仏寺の由
来が書かれた「弾誓寺由緒並末寺支配所由緒留帳」に本堂は四
間半に三間半、本尊は一尺五寸の音阿上人作(相川弾誓寺第三
世)の阿弥陀如来坐像。(中略)
霊宝の品は真更川の三十郎(村の草分け・旧家土屋三十郎家)
に預けている。境内屋敷は東西四十五間、南北六十間で、これ
は元禄6年(1693)に真更川村中より証文をもって念仏堂受付に
なった、と記す古文書が残っているそうです。
現在はガランとした空き家然としていて、壁には来訪者の落書き
だけがやたら目立つばかりでした。
刻銘が明瞭な浄厳上人の利剣名号塔がありました。利剣とは不
動明王が持つ鋭い剣先という意味です。
右側表に天保十己亥(つちのとゐ)年八月と読めました。前年の天
保9年には上山田村(旧羽茂町)総代となって佐渡をゆるがす事件
となった善兵衛らによる「天保一国騒動」が起きていました。
法国弾誓光明仏の六字名号塔が建っていました。左の石仏が弾
誓上人でしょうか。
名号塔の左側表に「浄土宗鎮西白旗流一向専修念仏道場」と刻
字されてありました。
参道入口付近に建っていた石塔の右側表に明治29年徳島の行
者笠掛澄心(かさかけちょうしん)とあり、岩谷口まで38町、真更
川まで18町と刻字が見えました。
修験者はここをベースに険しい道を上り下りして金剛山、檀特山、
金北山へと三山駈けをして山岳修行をしたのでしょうか。
(北佐渡紀行 その7)
(おわり)
参考図書 越後・佐渡の山岳修験 鈴木勝英著 法蔵館
地蔵の島・木食の島 田中圭一著
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コメント
昔の修験者は三山駈けなど大変な山岳信仰をしたのですね!
静岡の岳人さん おはようございます。昔は男の子は成人の証しに金北山に登って、山頂のシャクナゲの枝を手折って持ち帰り、親戚に配るのと、金北山、金剛山、檀特山の三山巡礼が守られていたと聞きました。
投稿: 静岡の岳人 | 2018年7月18日 (水) 17時11分