下田の古城址を訪ねる
5月14日(木)晴
三条から下田へR290とR289が重なり分かれる辺り、
原城山城址入口の杭を見つけて、大平川に沿って田んぼの
一本道を山側に向かいました。
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本丸跡に登ると五十嵐保(ほ)の沖に高城が見えました。
五十嵐保とは土着豪族の五十嵐氏が五十嵐川周辺を開墾した
五十嵐氏の領地でした。原山城の別名栄雲寺城は高城を居城
とした下田長尾氏の支城で、有事の際は烽火(のろし)を上げ
て急を知らせる物御台としての城砦だったようです。
麓の赤い山門が印象的な禅寺栄雲寺を訪ねました。山門を
くぐると境内で作業中の坊守様(奥様)から遊歩道のこと
など教えて頂きました。
門前の寺の由緒です。「永禄11年(1568)春、高城々主
長尾藤景が春日山城(上越市)で庄本庄繁長に謀殺された報せ
が早馬で城下に知らされた。家老長尾外記入道は急いで城をか
ため、出城であるここ原の城の堀を深くし逆茂木を造って守っ
た。高城攻めは栃尾城主の本庄実乃(さねより)が総大将で
人面峠から攻めかかった。原の将士は懸命に戦ったが多勢に
無勢で玉砕した。城跡の下にある栄雲寺で戦死した勇士の菩提
を弔い、家老の外記入道も同寺に祀られている。」
永禄11年は戦国時代、織田信長が足利将軍を擁して上洛を果
たした年でした。雪深い越後国ではそんな事件があったのです。
遊歩道を山頂部には古城跡の縄張(遺構)が残っていました。
山頂部は策平、南北稜線に堀切があり北側は二重の堀切で西側
斜面に堅掘がありました。
広い山頂にはベンチが置かれて公園になっていました。
下山してR289に乗り、下田長尾氏の居城高城々跡へ向かい
ました。麓に下田長尾氏の菩提寺の長禅寺がありました。
墓地裏から遊歩道を登ると鉄塔の立つ標高203.7mの長山
に続き、「ヒメサユリの径」が始まりました。3等三角点は
ついにわかりませんでした。標高373mの高城は東西に尾根
が走り、南北は急斜面の典型的な山城でした。
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ヒメサユリはまだでしたが、ビューポイントから残雪の守門岳
が見事でした。
(クリック拡大)
東西500mの尾根を削り曲輪を配して空堀や高土塁の遺構が
残っていました。広い山頂の御丸跡から眺めた守門岳は雄大
でした。
(おわり)
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コメント
あの長尾一族ですか?越後の国も歴史が古いから山城がいろいろあるのですね。こちらも今川、武田の時代からたくさんありますよ!山城巡りも良いですね!
投稿: 静岡の岳人 | 2020年6月 1日 (月) 09時37分
静岡の岳人さん こんにちは。南北朝時代から上杉謙信、景勝
時代の歴史に登場する山城跡が県下全域に残っているのです。
武田や織田の調略が資料に出てくるので面白いです。戦国時代は
駿河も越後も案外近かったのかもですね。
投稿: シャクナゲ色 | 2020年6月 1日 (月) 13時52分