笹岡城跡を訪ねる
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5月24日(日)晴
3密を避けられ人の居なさそうな場所はないかと…考えて
前から興味のあった笹岡城跡(阿賀野市)を訪ねてみました。
水原の町から田圃道を五頭山に向かって一と走りすると、笹岡
の町外れの諏訪神社に着きました。ここはすでに城跡の連廓
の一画でした。隣接して禅寺鑑洞寺と高土塁の奥に主廓があり
ました。戦国時代は湖沼に囲まれた水郷に浮かぶ浮沈要塞だっ
たでしょう。
主廓に通じる大堀切と高土塁の坂の下に古城主の墓がひっそり
とありました。
主廓は今は公園になっていました。遊具に遊ぶ子供の家族
を遠目に見て本丸跡を一周しました。郷土が産んだ2俳人
佐藤念腹師と石塚友二師の句碑がありました。
笹岡城は上杉家臣団のうち揚北衆を監視するための番城の
役目もあったようです。阿賀野川は昔揚河(あげがわ)といい
ました。揚河の北岸地域には鎌倉時代から戦国時代まで割拠し
た国人衆がいました。
鎌倉御家人が荘園の地頭として越後国に赴任し所領を治めて
いました。小泉荘(村上市)の本庄氏、奥山荘(胎内市)
の中条氏、加治荘(新発田市)の佐々木党の加治氏、白河荘
(阿賀野市)の安田氏、水原氏らは独立性が強く強力な軍事力
を持っていたので謙信にとっては目の上の瘤であり、度々政
情不安の種になりました。
永禄11年(1568)謙信の命を受けた本庄城主・本庄繁長
が自身も手傷を負いながら下田高城城主・長尾藤景、景治兄弟
を誅殺したものの謙信から恩賞がなかったことに不満を持った
繁長の所に謙信の上洛を阻もうとする武田信玄から調略の誘い
があり、これに内応して反乱を起こしたのでした。
日頃から謙信に不満を持っていた揚北衆を誘って反乱した繁長
でしたが、誘った揚北衆から計画が漏れやむなく信玄の援軍頼
りの籠城戦となりました。奮戦も甲斐なく1年後には鎮圧され
ました。終戦処理後、謙信に詫びを入れ許されて帰参しました。
謙信が亡くなると後継者を争う御館の乱が起きました。越後国
を二分した大乱は景勝側の勝利に終わりました。論功行賞は
景勝の旗本たちに手厚く、国人衆には冷たいものでした。
数々の軍功を上げ恩賞を期待していた加治衆の新発田重家でし
たが、兄の家督を相続することしか褒美として認められなかっ
たことに不満を持った重家一党は信長と呼応して、上杉景勝に
叛いて7年戦争を起こしたのでした。
福島潟を隔てて新発田城まで10kmの至近距離にあった
笹岡城は景勝側の最前線基地の役目を負うことになりました。
(おわり)
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コメント
湖沼に囲まれた水郷に浮かぶ浮沈要塞 笹岡城跡は歴史もありなかなか立派なものですね!越後の国も群雄割拠がたくさん有りましたね!山城巡り気を付けて頑張って下さい!
投稿: 静岡の岳人 | 2020年6月 5日 (金) 09時10分
静岡の岳人さん おはようございます。戦国史は図書館で読む
ばかりでなく、実際現地を訪ねると臨場感が湧いて夢中になり
ます。上杉謙信時代の山城は県下全域にあるので巡り甲斐が
あります。(^^)
投稿: シャクナゲ色 | 2020年6月 5日 (金) 09時28分