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2020年6月 4日 (木)

笹岡城跡を訪ねる

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5月24日(日)晴
3密を避けられ人の居なさそうな場所はないかと…考えて
前から興味のあった笹岡城跡(阿賀野市)を訪ねてみました。

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水原の町から田圃道を五頭山に向かって一と走りすると、笹岡
の町外れの諏訪神社に着きました。ここはすでに城跡の連廓
の一画でした。隣接して禅寺鑑洞寺と高土塁の奥に主廓があり
ました。戦国時代は湖沼に囲まれた水郷に浮かぶ浮沈要塞だっ
たでしょう。

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主廓に通じる大堀切と高土塁の坂の下に古城主の墓がひっそり
とありました。

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主廓は今は公園になっていました。遊具に遊ぶ子供の家族
を遠目に見て本丸跡を一周しました。郷土が産んだ2俳人
佐藤念腹師と石塚友二師の句碑がありました。

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笹岡城は上杉家臣団のうち揚北衆を監視するための番城の
役目もあったようです。阿賀野川は昔揚河(あげがわ)といい
ました。揚河の北岸地域には鎌倉時代から戦国時代まで割拠し
た国人衆がいました。

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鎌倉御家人が荘園の地頭として越後国に赴任し所領を治めて
いました。小泉荘(村上市)の本庄氏、奥山荘(胎内市)
の中条氏、加治荘(新発田市)の佐々木党の加治氏、白河荘
(阿賀野市)の安田氏、水原氏らは独立性が強く強力な軍事力
を持っていたので謙信にとっては目の上の瘤であり、度々政
情不安の種になりました。

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永禄11年(1568)謙信の命を受けた本庄城主・本庄繁長
が自身も手傷を負いながら下田高城城主・長尾藤景、景治兄弟
を誅殺したものの謙信から恩賞がなかったことに不満を持った
繁長の所に謙信の上洛を阻もうとする武田信玄から調略の誘い
があり、これに内応して反乱を起こしたのでした。

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日頃から謙信に不満を持っていた揚北衆を誘って反乱した繁長
でしたが、誘った揚北衆から計画が漏れやむなく信玄の援軍頼
りの籠城戦となりました。奮戦も甲斐なく1年後には鎮圧され
ました。終戦処理後、謙信に詫びを入れ許されて帰参しました。

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謙信が亡くなると後継者を争う御館の乱が起きました。越後国
を二分した大乱は景勝側の勝利に終わりました。論功行賞は
景勝の旗本たちに手厚く、国人衆には冷たいものでした。

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数々の軍功を上げ恩賞を期待していた加治衆の新発田重家でし
たが、兄の家督を相続することしか褒美として認められなかっ
たことに不満を持った重家一党は信長と呼応して、上杉景勝に
叛いて7年戦争を起こしたのでした。

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福島潟を隔てて新発田城まで10kmの至近距離にあった
笹岡城は景勝側の最前線基地の役目を負うことになりました。
(おわり)

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コメント

湖沼に囲まれた水郷に浮かぶ浮沈要塞 笹岡城跡は歴史もありなかなか立派なものですね!越後の国も群雄割拠がたくさん有りましたね!山城巡り気を付けて頑張って下さい!

投稿: 静岡の岳人 | 2020年6月 5日 (金) 09時10分

静岡の岳人さん おはようございます。戦国史は図書館で読む
ばかりでなく、実際現地を訪ねると臨場感が湧いて夢中になり
ます。上杉謙信時代の山城は県下全域にあるので巡り甲斐が
あります。(^^)

投稿: シャクナゲ色 | 2020年6月 5日 (金) 09時28分

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