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2020年6月18日 (木)

五頭山出湯界隈

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6月1日(月)くもり
出湯に近い羽黒の優婆尊堂を参詣しました。優婆尊堂のウバ
(優婆)様は三途の河の懸衣媼で死出の旅路の罪人の白衣を
剥ぎ、柳の枝にかけて枝の垂れ方で罪の軽重を計るしょうずか
ばあ様(葬頭河婆)のことです。

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「表は極悪憤怒の相なるも、内には慈悲大悲の涙を流し罪に
苦しむ衆生を救わんが為」と由来書にありました。尊像を拝め
ば現世で無病息災を、来世では速やかに仏果を得るとされてい
ます。内陣に「悪疫退散祈祷」の札が貼ってありました。

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堂の裏山・真光寺山の南麓に三十三観音巡りができる径が
ありました。不動堂の脇から入る登拝路に数人とスライド
しました。

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また一説には往時、羽州羽黒山伏の流があって役の優婆塞
(役行者)を安置していたといいます。堂脇に湯殿山と庚申塔
と真ん中は刻字が薄れて読めない石碑が祀ってありました。

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山際の奥に優婆尊御霊泉が湧き出ていました。金気があり
妊婦の貧血性に効くそうです。そういえば五頭山の砂郷沢
には鉄分の多い赤水がしみ出ている所があり信仰の対象に
なっているようです。

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優婆尊堂の脇から山際の古道を通って賽の磧に出ました。
「村の北方十五町計りにあり。石を積て早世した者の菩提を
弔ふに因って名づく。三月より七月まで参詣多しとぞ。華報寺
の僧来りて水施餓鬼を執行す。」と「越後野志」に書いてあり
ます。

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地蔵堂の脇を流れる大荒川が五頭山の霊域と俗界を区切る精進
川で、かっては気味の悪い淋しい場所で昼でも訪れる人はいな
かったそうですが、今は裏手をR290が通り、レストランも
あったりして憩いの場になっているようでした。

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「出湯村にあり。大同四年巳丑三月、空海師草創建立、五頭山
福性院海満寺と名づく。寺領五百七十八石九斗三升。文明年中
曹洞宗となり、耕雲寺六世大安和尚とし、華報寺と改め名づく、
末寺二十余寺あり。云々」と「越後野志」にあります。

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五頭山は弘法大師開創の修験の霊場として始まり、中世には
浄土的霊場としての信仰が盛んだった時代があったのです。
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境内には昔から変わらず続く無料の共同湯がありました。
精進川だった大荒川でみそぎをして五頭山に登拝した後は
精進落としの湯に浸かったことでしょう。

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「昭和30年頃、華報寺の西南にある蓮台野が農地に開放される
ことになり、開墾に着手したところが地下から大量の石仏、五
輪塔、骨壺が出土した。これらは鎌倉時代から室町時代の遺物
で密教寺院の墓地であったと思われた。石仏石塔の大部分は好
事家に持ち去られたので、水原の家田博士(小刀子)らが保存
運動を起こして保護された。」そうです。

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水原の家田小刀子先生(小刀子は俳号)は越後ホトトギス派
俳誌真萩の同人で素十門の大先輩にあたる名人でした。
「越後野志」は江戸後期、水原の書籍商小田島允武が著した
風土記で、越後の山旅の著者藤島玄氏は畢生の風土記として
採用したと書いています。
いつも素通りしている羽黒~出湯の古道を歩いてみると色々と
発見がありました。
(おわり)
参考文献:「越後の山旅・上巻」(藤島玄著)
     「忘れられた霊場」(中野豈任著)

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コメント

五頭山出湯界隈も古くからの歴史があるところですね。三途の河のるしょうずかばあ様(葬頭河婆)知っていますよ!いつもの山行とは違いバラエティーに飛んで良いですね!

投稿: 静岡の岳人 | 2020年6月19日 (金) 13時11分

静岡の岳人さん おはようございます。仲間と山行をすると密に
なるからと、専らソロです。近場の山麓の旧蹟を巡ると歴史やら
色々発見があって面白いです。

投稿: シャクナゲ色 | 2020年6月20日 (土) 10時19分

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