五頭山出湯界隈
6月1日(月)くもり
出湯に近い羽黒の優婆尊堂を参詣しました。優婆尊堂のウバ
(優婆)様は三途の河の懸衣媼で死出の旅路の罪人の白衣を
剥ぎ、柳の枝にかけて枝の垂れ方で罪の軽重を計るしょうずか
ばあ様(葬頭河婆)のことです。
「表は極悪憤怒の相なるも、内には慈悲大悲の涙を流し罪に
苦しむ衆生を救わんが為」と由来書にありました。尊像を拝め
ば現世で無病息災を、来世では速やかに仏果を得るとされてい
ます。内陣に「悪疫退散祈祷」の札が貼ってありました。
堂の裏山・真光寺山の南麓に三十三観音巡りができる径が
ありました。不動堂の脇から入る登拝路に数人とスライド
しました。
また一説には往時、羽州羽黒山伏の流があって役の優婆塞
(役行者)を安置していたといいます。堂脇に湯殿山と庚申塔
と真ん中は刻字が薄れて読めない石碑が祀ってありました。
山際の奥に優婆尊御霊泉が湧き出ていました。金気があり
妊婦の貧血性に効くそうです。そういえば五頭山の砂郷沢
には鉄分の多い赤水がしみ出ている所があり信仰の対象に
なっているようです。
優婆尊堂の脇から山際の古道を通って賽の磧に出ました。
「村の北方十五町計りにあり。石を積て早世した者の菩提を
弔ふに因って名づく。三月より七月まで参詣多しとぞ。華報寺
の僧来りて水施餓鬼を執行す。」と「越後野志」に書いてあり
ます。
地蔵堂の脇を流れる大荒川が五頭山の霊域と俗界を区切る精進
川で、かっては気味の悪い淋しい場所で昼でも訪れる人はいな
かったそうですが、今は裏手をR290が通り、レストランも
あったりして憩いの場になっているようでした。
「出湯村にあり。大同四年巳丑三月、空海師草創建立、五頭山
福性院海満寺と名づく。寺領五百七十八石九斗三升。文明年中
曹洞宗となり、耕雲寺六世大安和尚とし、華報寺と改め名づく、
末寺二十余寺あり。云々」と「越後野志」にあります。
五頭山は弘法大師開創の修験の霊場として始まり、中世には
浄土的霊場としての信仰が盛んだった時代があったのです。
境内には昔から変わらず続く無料の共同湯がありました。
精進川だった大荒川でみそぎをして五頭山に登拝した後は
精進落としの湯に浸かったことでしょう。
「昭和30年頃、華報寺の西南にある蓮台野が農地に開放される
ことになり、開墾に着手したところが地下から大量の石仏、五
輪塔、骨壺が出土した。これらは鎌倉時代から室町時代の遺物
で密教寺院の墓地であったと思われた。石仏石塔の大部分は好
事家に持ち去られたので、水原の家田博士(小刀子)らが保存
運動を起こして保護された。」そうです。
水原の家田小刀子先生(小刀子は俳号)は越後ホトトギス派
俳誌真萩の同人で素十門の大先輩にあたる名人でした。
「越後野志」は江戸後期、水原の書籍商小田島允武が著した
風土記で、越後の山旅の著者藤島玄氏は畢生の風土記として
採用したと書いています。
いつも素通りしている羽黒~出湯の古道を歩いてみると色々と
発見がありました。
(おわり)
参考文献:「越後の山旅・上巻」(藤島玄著)
「忘れられた霊場」(中野豈任著)
| 固定リンク
コメント
五頭山出湯界隈も古くからの歴史があるところですね。三途の河のるしょうずかばあ様(葬頭河婆)知っていますよ!いつもの山行とは違いバラエティーに飛んで良いですね!
投稿: 静岡の岳人 | 2020年6月19日 (金) 13時11分
静岡の岳人さん おはようございます。仲間と山行をすると密に
なるからと、専らソロです。近場の山麓の旧蹟を巡ると歴史やら
色々発見があって面白いです。
投稿: シャクナゲ色 | 2020年6月20日 (土) 10時19分