旅行・地域

2020年9月22日 (火)

2ヶ月ぶりの里山歩き

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9月21日(祝・月)晴
「暑さ寒さも彼岸まで」の言い伝えのとおり、あんなに厳しか
った熱暑残暑がウソのように和らいで、朝はめっきり涼しく
なりました。それならと、鈍りになまった足を慣らしに出かけ
て来たというわけで。

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蜜なめに秋の蝶くる蜂のくる  石南
早くも山の虫たちは冬の準備に余念がないように見えました。

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山あざみ紅を残して末枯るゝ
タムラソウも盛りの時期も過ぎたようでした。

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蒲原は越のまほろば豊の秋
木の間越に青い海と稔り田の蒲原平野が見えました。尾根を
吹き抜ける風が爽やかでした。

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さびしさの雑木の山の法師蝉
細尾根の急坂をロープ沿に登ると鈍っていた四肢にかかる
負荷が忘れかけていた登高意欲を呼び覚ましてくれるようで
した。遠くから聞こえる法師蝉に夏の名残を感じました。

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山頂広場はそこここにシートを広げる人たちの宴会の最中で
した。これまで自粛々々で抑えていたものが弾けたように
見えました。正直、ちょっと恐い感じがして。

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混雑の山頂を避けて山頂末端部の向陽観音堂前広場に来ました。
そこに見知った山の仲間の顔がありました。!(^^)!を見ただけ
で気持ちが和むのでした。

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山の毒吸うて犇めく毒きのこ
ニガクリタケが発生していました。この時期はまだ毒菌類
ばかりです。

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山蔭に火の手と見えし曼殊沙華 
ちゃんと彼岸には彼岸花が咲いてくれる角田山なのでした。
今年は猛暑残暑で出るのが億劫で8月のキツネノカミソリ
に染まる景色を遂に見過ごしてしまいました。

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でも、涼しくなったので今日を境にまた角田山に通いたいと
気持ちを新たにしたのでした。
(おわり)

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2020年8月20日 (木)

山の日は里山へ

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8月10日(月・祝)晴れ
長梅雨が明けたら途端に30℃超えの真夏日になりました。
「特別な夏」となった今年の山の日は近場の弥彦山に登
りました。

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木陰の参道は涼しいと思いきや、風が落ちて今日は難儀な
登山日になりました。

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それでも滝の沢の源頭部の原生林は心持涼しい感じが
しました。

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奥宮に参拝して家内安全とコロナの終息を祈願しました。
密にならず参拝者がつぎつぎと続いていました。

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御神廟内は公園じゃありません。といったかどうかわかり
ませんが。祢宜のご御注意を受けている人もチラホラと見
かけました。

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(俳句)広々と蒲原五郡秋暑し

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(俳句)悠然と飛び折り返す鬼やんま

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(俳句)雨よごれ風いたみして山の百合

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(俳句)疫癘のいよいよ激し盆の月
大声で喋りはしゃぐ人等から離れて、逃げるように下山しま
した。「コビッド19」から全てが一変してしまいました。
来年の山の日には小屋泊りの夏山登山が出来るようになって
いるのか気がかりです。
(おわり)

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2020年7月27日 (月)

梅雨の晴れ間に

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7月20日(月)くもり後雨
カーンコ~ンと槌打つ音の主は今朝も道張り普請中の花守
人氏でした。偶に逢ういつも笑顔の花守人さんから今日も
元気を貰いました。

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(俳句)ゆくりなく三光鳥に耳すまし  石南
今朝まで雨、明日からまたず~っと雨予報なので偶の晴間に
山歩きをしようと出かけて来たのです。今日の気温は30°
風が落ちて蒸暑さはまるで温室の中にいるようで。

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人には不快でも植物たちには好環境なのでしょう。花はもう
あらかた終ったので今日は梅雨茸を探しながら登りました。

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ヒヨドリバナが群生していました。アサギマダラはまだ飛来
していないようでした。南から渡りをしてきたアサギマダラ
はヒヨドリバナの蜜を吸いピロリジジンアルカロイド(PA)
を取り込んで逞しい雄蝶に変身して恋の相手を探すのです。

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取り込んだPAには雄の性フェロモンの原料が含まれていて
毒性の強いアルカロイドによって体質が変異した蝶は天敵の
鳥から身を守る術を知っているようだと、佐渡のガイド氏が
教えてくれたのでした。今年はまだ佐渡の山には行っていな
いけど佐渡のガイド氏は元気かしら。

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暑さの中をヘロヘロになりながら山頂に着きました。こんな
蒸暑い日にはさすがに小屋には誰も居ませんでした。

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切株にニガクリタケが発生していました。今日はアマニタ
もボレイタスも見かけませんでした。外に出て山頂広場の
ベンチでコーヒーブレイクしていたら久闊の山の会の仲間
たち、大姉様方が入れ代わり立ち代わりに現れて。

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オキナクサハツの老菌を見つけました。
「ヤマユリとクルマユリは咲いてませんでした?」って聞い
たら、灯台尾根にいっぱい咲いてたわよ。

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っていうので下りは灯台尾根を辿ることにしました。今が
盛りと咲くクルマユリが見事でした。

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(俳句)山百合の香につゝまるゝ山の午後
岩場にさしかかると辺り一帯が強い芳香に包まれました。
百合の女王とは言いいて妙。見事な咲きっぷりでした。
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岩稜に立つと海からの涼風が心地よいので、暫し岩棚に腰を
下ろしていました。

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魚見山にはナワシロイチゴの赤い大きな実がいっぱいあり
ました。一粒摘んで口に含むと甘酸っぱい味が口中に広が
りました。

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長梅雨が明ければ夏土用明け。二の丑に鰻を食せば山に秋が
訪れるのはもうすぐです。
(おわり)

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2020年7月13日 (月)

野積海岸を歩く

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6月22日(月)晴
弥彦の神様が修業されたという浜滝に来ました。「弥彦さま
清めの滝」と呼ばれると滝脇の由来書に書いてありました。

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野積集落から裏手の観光道路へ支線を上り、途中から妻戸神社
に登りお参りしました。御祭神は弥彦神の妃神・熟穂屋姫命
(うましほやひめのみこと)を祀っています。

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(俳句)御神田の紙垂(しで)あたらしき青田風  石南
二の鳥居をくぐると御神田に出ました。四方に幣を立て清めら
れた青田に青稲が育っていました。保存会の氏子の人達が新米
を奉納するそうです。

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三の鳥居をくぐり更に奥へ上ると四つ目の鳥居の奥の大岩の
前に奥宮が祀られていました。

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山の宮を下り浜辺に出ました。野積海岸に上陸された弥彦神は
民に製塩、漁撈、酒造、養蚕の技術を教えられたと伝えられて
います。越後地酒の野積杜氏は殊に有名になりました。

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ハマボウフウ(浜防風)が花盛りでした。野積集落の人達が
NPOの保存会を立ち上げて大事に育ててきたおかげで海岸
一体がハマボウフウの原に変わりました。

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荒涼とした砂丘が地道な保護によって豊かな防風の原に変
わった姿を見るにつけ自然保護の大切さを教えられたよう
な気がしました。
(おわり)

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2020年7月11日 (土)

茅の輪くぐり

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6月17日(水)晴
弥彦神社に半年参りと茅の輪くぐりに出掛けました。
(俳句)パンディミイ来るなと茅の輪くぐりけり  石南

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(俳句)明神の廟の坂道額の花
参拝のあと御剣峯の御神廟に登りました。参道の坂道は
額の花が咲き始めました。

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午後晴れて北の双耳峰の多宝山が見えました。昔は主峰御剣峯
と多宝山と合わせて弥彦山でしたが平成の大合併で多宝山は分
かれて新潟市の最高峰になりました。

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山頂の磐座には御祭神の天香語山命と妃神の熟穂屋姫命が
まつられています。

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(俳句)海境(うなさか)の青水無月の島淡し
多宝山に登る途中から新潟沖に浮かぶ佐渡がよく見えました。

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(俳句)静けさの十宝(とだから)の山深みどり
御剣峯の御神廟に登る参道とは違い、多宝山に登る人は殆んど
いないので草蓬々の草のトンネルを只黙々と登りました。

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多宝山は別名「十宝山」といいます。弥彦神が大和朝廷から
持って来られた十種の神宝を埋納した処と伝えられています。

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遠く残雪の越後三山が見えました。山頂の一等三角点本点に
タッチして下山しました。あと半年コロナ禍に遭わぬように
山に掌をあわせました。
(おわり)

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2020年6月21日 (日)

スカシユリが見頃に

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6月15日(月)くもり
花守人さんが話していた田中澄江著の新花の百名山(新花百)
の71番に角田山のスカシユリのことが載っています。その
記事に…

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その日の案内役は「越後の山旅」の著者藤島玄氏。頂上で名物
の笹団子を食べるのを楽しみに五ヶ峠から登り、三望平経由で
左に佐渡を見ながら芝生の山頂に立ったとありました。

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花守人氏の話では海から三望平まで尾根一つに途切れること
なく咲き続くスカシユリの見事さに圧倒されて新花百の記事
が生まれたんだよねって。

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記憶は定かでないのですが、私が中学生の頃仲間と登った
角田山は今よりも花がいっぱいあったような気がします。

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キリンソウも満開になりました。

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花は実に。可憐なアマドコロの花が終わったと思ったら、後に
まん丸の実がついていました。秋には青く冬には黒く熟して
いくのでしょう。

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ナワシロイチゴの花が終わりかけていました。7月半ば、真赤
な甘い実が熟したら又訪ねてみようと思います。

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隣りの小浜に回ってみました。雷岩はいつ見ても迫力あります。
(上)魚見山の岩場にもスカシユリがほつほつ咲いていました。

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コオロギとバッタを見つけました。コロナ禍に苛まれている
うちに角田山の自然は確実に秋に向かって進んでいるようで
した。夏至を過ぎれば秋はもうすぐです。
(おわり)

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2020年6月20日 (土)

スカシユリを探しに

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6月6日(土)晴
灯台尾根にスカシユリをさがしに出かけました。

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朝刊に佐渡の藻浦崎のイワユリが見頃を迎えたとありました。
角田山から見える佐渡とは植生が似ているのかなって思い
ます。昨年の今頃は佐渡の山にいたのに、今年はコロナで
叶いませんでした。

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咲き始めた岩百合はまだつぼみが目立ちました。

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バッタリと今日も花守人さんに出会いました。木製のシャフト
のピッケルとは懐かしい。昔学生の頃バイトして貯めたお金
で買った札幌門田のピッケルの話をしたら、同じ思いがあった
ようで氏と盛り上がり、ついつい長話になりました。

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ところでと、「角田山で岩百合が見られる穴場は?」って氏に
聞いてみたら「小浜の岩場に行けば咲いてるよ。」って。

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小浜に回ったら岩百合はまだ見えませんでしたが、岩場を覆う
草のグリーンベルトが壮大な風景になっていたのに胸打たれた
のでした。

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覆いかぶさるような谷の真ん中にキャンプ椅子を持ち出して
いる人がいました。


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谷の真ん中にいると草原をわたる風が心地よかったのです。
角田山にこんな別天地があったなんて。何か得した気分に
なってしばしボーッとして過ごしました。
(おわり)

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2020年6月18日 (木)

五頭山出湯界隈

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6月1日(月)くもり
出湯に近い羽黒の優婆尊堂を参詣しました。優婆尊堂のウバ
(優婆)様は三途の河の懸衣媼で死出の旅路の罪人の白衣を
剥ぎ、柳の枝にかけて枝の垂れ方で罪の軽重を計るしょうずか
ばあ様(葬頭河婆)のことです。

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「表は極悪憤怒の相なるも、内には慈悲大悲の涙を流し罪に
苦しむ衆生を救わんが為」と由来書にありました。尊像を拝め
ば現世で無病息災を、来世では速やかに仏果を得るとされてい
ます。内陣に「悪疫退散祈祷」の札が貼ってありました。

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堂の裏山・真光寺山の南麓に三十三観音巡りができる径が
ありました。不動堂の脇から入る登拝路に数人とスライド
しました。

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また一説には往時、羽州羽黒山伏の流があって役の優婆塞
(役行者)を安置していたといいます。堂脇に湯殿山と庚申塔
と真ん中は刻字が薄れて読めない石碑が祀ってありました。

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山際の奥に優婆尊御霊泉が湧き出ていました。金気があり
妊婦の貧血性に効くそうです。そういえば五頭山の砂郷沢
には鉄分の多い赤水がしみ出ている所があり信仰の対象に
なっているようです。

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優婆尊堂の脇から山際の古道を通って賽の磧に出ました。
「村の北方十五町計りにあり。石を積て早世した者の菩提を
弔ふに因って名づく。三月より七月まで参詣多しとぞ。華報寺
の僧来りて水施餓鬼を執行す。」と「越後野志」に書いてあり
ます。

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地蔵堂の脇を流れる大荒川が五頭山の霊域と俗界を区切る精進
川で、かっては気味の悪い淋しい場所で昼でも訪れる人はいな
かったそうですが、今は裏手をR290が通り、レストランも
あったりして憩いの場になっているようでした。

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「出湯村にあり。大同四年巳丑三月、空海師草創建立、五頭山
福性院海満寺と名づく。寺領五百七十八石九斗三升。文明年中
曹洞宗となり、耕雲寺六世大安和尚とし、華報寺と改め名づく、
末寺二十余寺あり。云々」と「越後野志」にあります。

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五頭山は弘法大師開創の修験の霊場として始まり、中世には
浄土的霊場としての信仰が盛んだった時代があったのです。
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境内には昔から変わらず続く無料の共同湯がありました。
精進川だった大荒川でみそぎをして五頭山に登拝した後は
精進落としの湯に浸かったことでしょう。

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「昭和30年頃、華報寺の西南にある蓮台野が農地に開放される
ことになり、開墾に着手したところが地下から大量の石仏、五
輪塔、骨壺が出土した。これらは鎌倉時代から室町時代の遺物
で密教寺院の墓地であったと思われた。石仏石塔の大部分は好
事家に持ち去られたので、水原の家田博士(小刀子)らが保存
運動を起こして保護された。」そうです。

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水原の家田小刀子先生(小刀子は俳号)は越後ホトトギス派
俳誌真萩の同人で素十門の大先輩にあたる名人でした。
「越後野志」は江戸後期、水原の書籍商小田島允武が著した
風土記で、越後の山旅の著者藤島玄氏は畢生の風土記として
採用したと書いています。
いつも素通りしている羽黒~出湯の古道を歩いてみると色々と
発見がありました。
(おわり)
参考文献:「越後の山旅・上巻」(藤島玄著)
     「忘れられた霊場」(中野豈任著)

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2020年6月 5日 (金)

木場城跡は植田の中

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5月29日(金)晴
新発田重家の乱で新発田領の信濃川河口を守る新潟城(今の
白山公園内にあったらしい)と沼垂城に対峙する景勝側の西
の最前線基地となった木場城跡は西区(新潟市)の集落外れ
の田の畦の中にありました。平城の遺構は何も残っていませ
んでした。

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新潟市文化財センターに伺って城跡の所在地を聞いてみた
のでしたが、何せ初めて訪問した場所なので田圃道を右往
左往してしまいました。

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農作業中のおじさん聞いたら、「口で説明するより付いて
こいよ!」と言ってくれたので、親切なおじさんの車の後
に付いて、ここまで来たのでした。

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昔、一帯は水郷地帯で「向こうに見える隣の村まで一面鏡の
ようになってな。水を張った田の上を舟で往来したもんさ」
とおじさんが懐かし気に答えてくれました。

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新潟城も沼垂城の遺構は今は何も残っていません。湿地帯と
砂洲が天然の防御帯となって互いの城砦には容易に近づけず
主に軍船から火矢焙烙の応酬だったようです。最終的には
景勝側が新発田勢を討ち、信濃川河口の利権を獲得できたこと
が新発田氏攻略の足掛かりになりました。

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上杉氏が会津移封後は木場城は廃城になりましたが、その後
堀氏が入封後は城跡を本格改修し、城主の館が建ちました。

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跡地は現在は村の鎮守・木場八幡宮となり、一帯は整備されて
公園になりました。
(おわり)

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2020年6月 4日 (木)

笹岡城跡を訪ねる

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5月24日(日)晴
3密を避けられ人の居なさそうな場所はないかと…考えて
前から興味のあった笹岡城跡(阿賀野市)を訪ねてみました。

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水原の町から田圃道を五頭山に向かって一と走りすると、笹岡
の町外れの諏訪神社に着きました。ここはすでに城跡の連廓
の一画でした。隣接して禅寺鑑洞寺と高土塁の奥に主廓があり
ました。戦国時代は湖沼に囲まれた水郷に浮かぶ浮沈要塞だっ
たでしょう。

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主廓に通じる大堀切と高土塁の坂の下に古城主の墓がひっそり
とありました。

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主廓は今は公園になっていました。遊具に遊ぶ子供の家族
を遠目に見て本丸跡を一周しました。郷土が産んだ2俳人
佐藤念腹師と石塚友二師の句碑がありました。

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笹岡城は上杉家臣団のうち揚北衆を監視するための番城の
役目もあったようです。阿賀野川は昔揚河(あげがわ)といい
ました。揚河の北岸地域には鎌倉時代から戦国時代まで割拠し
た国人衆がいました。

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鎌倉御家人が荘園の地頭として越後国に赴任し所領を治めて
いました。小泉荘(村上市)の本庄氏、奥山荘(胎内市)
の中条氏、加治荘(新発田市)の佐々木党の加治氏、白河荘
(阿賀野市)の安田氏、水原氏らは独立性が強く強力な軍事力
を持っていたので謙信にとっては目の上の瘤であり、度々政
情不安の種になりました。

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永禄11年(1568)謙信の命を受けた本庄城主・本庄繁長
が自身も手傷を負いながら下田高城城主・長尾藤景、景治兄弟
を誅殺したものの謙信から恩賞がなかったことに不満を持った
繁長の所に謙信の上洛を阻もうとする武田信玄から調略の誘い
があり、これに内応して反乱を起こしたのでした。

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日頃から謙信に不満を持っていた揚北衆を誘って反乱した繁長
でしたが、誘った揚北衆から計画が漏れやむなく信玄の援軍頼
りの籠城戦となりました。奮戦も甲斐なく1年後には鎮圧され
ました。終戦処理後、謙信に詫びを入れ許されて帰参しました。

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謙信が亡くなると後継者を争う御館の乱が起きました。越後国
を二分した大乱は景勝側の勝利に終わりました。論功行賞は
景勝の旗本たちに手厚く、国人衆には冷たいものでした。

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数々の軍功を上げ恩賞を期待していた加治衆の新発田重家でし
たが、兄の家督を相続することしか褒美として認められなかっ
たことに不満を持った重家一党は信長と呼応して、上杉景勝に
叛いて7年戦争を起こしたのでした。

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福島潟を隔てて新発田城まで10kmの至近距離にあった
笹岡城は景勝側の最前線基地の役目を負うことになりました。
(おわり)

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