日記・コラム・つぶやき

2026年6月15日 (月)

三ノ峠山

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(俳句)六月の風の行き来の峠かな
三ノ峠山への途中ブナ平から木の間越に見た鋸山のスケッチ
である。ブナ平は橅が少しもなく杉ばかりの昏い平坦部であ
った。佐渡の山毛欅ガ平山も山名に違いブナがない雑木の山
であった。山も時とともに変わるのである。東山丘陵は峠が
多い。三ノ峠山の名の由来に一ノ峠から数えて三番目の峠が
そのまま名前となったという説がある。一ノ峠は451m八方
台に近い森立峠(もったてとうげ)であろうか。峠には線刻
の見送り地蔵が立っている。峠道は長岡と栃尾を結ぶ往還で
殿様街道と呼ばれたという。森立峠の句を詠んだ新潟俳句界
の鬼才といわれた耕畝大人(うし)のことが思い出される。
平安時代に酒呑童子の一の子分として世を騒がせた茨木童子
も森立峠下の軽井沢の出身であったとか。

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二ノ峠は花立峠であろうか。北進すれば一等三角点の鋸山へ
南進すれば萱峠を経て山古志の種苧原へ、東進すれば半蔵金
を経て栃尾へ続く往還を昔の人々は行き来したであろう。観
鋸台に立つと屏風のような鋸山が圧倒的であった。百年前の
人々がそうしたように六月の風を感じながら汗を拭きつつ、
往時に思いを馳せてみた。
(おわり)

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2026年5月14日 (木)

岩屋洞窟

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(俳句)仏あり六字名号滴れる
外海府の一周道路に駐車してすぐの所に岩屋洞窟がある。
岩の形がパラボラアンテナのように潮騒の音を集めて増幅
する役目をしてくれる。洞窟の前に立って耳をすますと波
の余韻を感じるのである。

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「南無阿弥陀仏 浄厳」と刻まれている。「浄厳さま」と地
元民に敬われた浄土宗の木喰僧の浄厳上人が長い間洞窟に
籠って念仏修行を行ったと伝えられている場所である。その
時に岩窟の岩壁に利剣六字名号を刻字されたものであろう。

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暗い洞窟を抜け出ると前方に知行山が見えた。どこからも
よく見える知行山である。さっきまであのカーブを登って
トンガリの頂に立ったのかとしみじみとうっとりと眺めて
いた。

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ゼット坂に上った。知行山と海馿の峰が見える。その先の
関岬、五十浦の海岸線と青い海、坂の上には与謝野鉄幹の
歌碑がある。「波寄せて 海府の海の ふくらめば 岩踊るあり
歌へるもあり」鉄幹さんが100年前に見た景色を今見ている。
実に一級品の景色であると思う。
(おわり)

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2026年5月12日 (火)

知行山

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4月19日(日)晴
(俳句)北佐渡の関の山々笑ひそむ
知行山(ちぎょうさん)385m 三角点なし 登山道なし
緯度381451 経度1382521 2.5万図「小田」国土地理院
掲載資料 日本山名辞典
佐渡市(旧相川町) 山番号67 藪山ネット№67
「藪山ネット」の山行記録 2018.10.15(百山百色より)

江戸時代、国仲平野の二宮村から草分け13人が海路を北進
して関の海岸に辿り着き、一帯を開拓して新しく関村の開
村にこぎつけた歴史があった。草分け13人がそれぞれの屋
敷神を連れて来たので、今では佐渡一番の信仰厚い村にな
ったという。
島泊まり2日目、早起きして朝の関集落を散歩した。知行山
の尖峰は何処からでもよく見える。海岸からすっくと立ち上
り海側の急峻な斜面はスラブをまとって堂々の山容である。
山名の「知行山」も歴史的な奥深さを感じる。知行山の海側
は民宿家の持ち山であるという。民宿主人のご好意で今回入
山の許可を得た。
藪山ネットの山行記録「2018.10.15では8年前、五十浦川の
左岸林道の橋の付近から取付き北東尾根の肩ピークを目指し
山頂を往復した」とある。

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私達は今回は荒れた林道を更に南進して標高200mの車の切り
返しが出来る所に駐車。徒歩で標高280mの杉の植林地から取
付き、南尾根の320mの肩を目指して山頂を往復することにし
た。

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等高線が広く緩んだ平坦地は昔段々畑が広がっていたのであ
ろう。山の縁へりに沿って灌漑用の水路の形状が残っていた。
長髭のウラシマソウやウルイ、ゼンマイの山菜類が豊富であ
る。コイワカガミの群落などの花々も咲いていた。4月では
ヤブが薄い所を歩き、ほぼ水平移動で進んだ。

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前方にトンガリの知行山が見えた。ここから左の斜面に取付
く。2.5万地図の290mピークの東側をなぞるように250mの
鞍部へ下る。鞍部から北西へ等高線が混む南尾根の肩320m
まで一気に高度を上げる登りがきつかった。両足を揃えると
ズルズル落ちそうな斜面で細い立木の根や枝をつかんで腕で
這い上がった。

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先行するガイド氏を追って14人が続く。高い立木の下は渇
いていて下草が生えないところを見つけた。倒木に腰を下
ろして一と息入れた。古い赤布があった。

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南尾根の肩に着く、縦に細長い小広場だった。山頂が大分
近づいた。

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言伝えのとおり風神を祀る小祠があった。草分けが重い石の
小祠を担いで荷上げしたものであろうか。14人が揃って登頂
できたことを感謝して掌を合せた。

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北側は崖、その先の海の青さと青空がきれいだと思った。
下山の安全を石祠に祈った。

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広い尾根の下山ではGPSの軌跡が大いに役立った。14人が
歩いた後は立派な踏み跡がついた。登りにつけたペナント
は残らず回収した。
《往路》駐車地点 7:55ー尾根取付 8:20ー山頂 9:20
《復路》山頂 9:40ー尾根取付10:25ー駐車地点・下山10:50
(おわり)

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2026年5月10日 (日)

安寿塚

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(俳句) 安寿塚韃靼塚に木の芽風 
相川町を経由して外海府の海岸ドライブで北へひた走る。
「弁慶の挟み岩」に「獅子岩」と奇岩が多い佐渡のジオパー
クである。「安寿塚」が見えて来た。ちょっと寂しげな海辺の
捨て田の中に祀られた赤い小祠が印象的である。ガイド氏の
説明によれば佐渡にはここ鹿野浦と畑野町の二つの安寿塚が
有名という。鹿野浦の伝承はようやく母と再会を果たした安
寿姫であったが、母は盲人になって島の悪童らにいつもいじ
められていたので、安寿に声を掛けられたのにも「また悪童
らか」と思い違いをして安寿姫を柴で叩いてしまい、直後に
息絶えたという。畑野町の伝承では母と再会した後、長年の
苦労で衰弱していたので畑野に向かう途中に息絶えた安寿姫
の遺品(櫛・笄)が埋められたという。
安寿塚にはまだ複数の説があり地域ごとに物語が異なるのが
特徴である。上越市の直江津では安寿と厨子王が人買いに売
られた地が今津(=直江津)だった縁で供養塔建てられたと
いう。森鴎外の代表作である「山椒太夫」は中世の芸能説教
節の「さんせう太夫」の元話に取材した近代短編小説である。
あらすじー平安時代の頃、筑紫へ左遷された父に会いに向か
った妻と安寿姫と厨子王丸は直江津で人買いに騙され、離れ
ばなれになってしまった。安寿と厨子王は丹後の荘園領主の
山椒太夫に売られて奴隷となった。数年後安寿は厨子王を逃
して入水する。厨子王はその後出世して山椒太夫に奴隷解放
を命じることができた。その後厨子王は佐渡にいる盲人にな
った母と再会する。(直江津地区連合青年会)

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佐渡には貴種流離譚が多いと思う。貴種流離譚の定義は
折口信夫が指摘した物語類型で高貴な出自⇒流離⇒試練⇒
再起⇒帰還という流れを持つ。
「安寿と厨子王」が貴種流離譚なのか?1.貴種(高貴な出自)
安寿と厨子王の父は奥羽五十六郡の太守で高貴な家柄で貴種
流離譚の大前提に一致。2.流離(没落・追放漂白)父が讒言で
流罪となり母子は旅の途中で人買いに売られ姉弟は丹後で奴隷
同然の扱いを受ける。⇒本来の身分から最も遠い場所へ落ちる
典型的展開。3.試練(苦難・成長)・過酷な労働、・安寿の自己
犠牲、・厨子王の逃亡と精神的成長⇒流離の中で主人公が鍛え
られる段階。4.再起(力の獲得・正統性の回復)厨子王は京都
で保護され養子となりついに朝廷に訴えて父に無実を晴らし旧
領を回復する。失われた身分の回復=貴種流離譚の核心。
5.帰還(復讐・母との再会)丹後に戻り山椒太夫らに裁きを
下し、佐渡で母と再会する。⇒出発点に戻り、物語が円環を閉
じる。(ウィキペディア)
「安寿と厨子王」は貴種流離譚の構造を完全に備えた日本文学
作品であると同時に説教節の特徴が反映された深みを持ってい
るといえる。
北佐渡の関集落にある文弥人形座「関栄座」でかつての名人
北村宗演の録音を伴奏に使用した人形劇を観たことがある。そ
の中で語られる「安寿恋しやほうやれほ」は有名な「鳥追い歌」
の一節である。盲目となった母が鳥を追いながら歌う哀切な歌
で母の深い悲しみと子への愛情を象徴する。北村宗演はこの文
弥節の名人太夫として知られている。

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矢柄集落の集会所の前に北村宗演の顕彰碑が立っている。新潟
県立図書館にアーカイブの北村宗演のCDを借りて聴いたことが
ある。佐渡に売られ盲目となった母が鳥追いをしながら毎日歌
っていたと伝わる物語の中で最も胸を打つ場面のひとつである。
安寿恋しや ほうやれほ 厨子王恋しやほうやれほ 鳥も生あ
るものなれば 疾う疾う逃げよ 追わずとも
佐渡の鹿野浦にはこの歌を刻んだ石碑が立っている。碑文に
森鴎外の次女・小堀杏奴の名が添えられている。
「安寿と厨子王」が貴種流離譚なら檀風の阿新丸も貴種流離譚
であると思う。佐渡に貴種流離譚が多いのは佐渡が律令制の遠
流地になっていたことに起因するのであろう。
(おわり)

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2026年5月 8日 (金)

奉納能

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(俳句)うぐひすに始まる島の能舞台
佐渡最古と伝わる能舞台は1846年(弘化3年)に再建された
建物で茅葺寄棟造、鏡板に影向の松と日輪が描かれている。
境内の芝生の上に敷かれたシートの見所に100人余の観客
が奉納能の開演を待った。境内の木藪からよく通る鶯の声
が聞こえるほかは静寂の時が流れる。地元真野能楽会の人
たちが演ずる演目は「猩々」(しょうじょう)。中国の潯陽
江を舞台に酒好きの妖精猩々が親孝行の青年の高風に
「尽きぬ酒壺」を授けて祝福する目出度い内容の能である。
橋懸りの奥に掛けられた五色の幕が揚がり、しずしずと入
場するお囃子の笛方から、小鼓・大鼓と続き太鼓方が入場
して着座した。能舞台右奥の低いくぐり戸から地謡方が入
場して着座。直面のワキの高風が前に出て名宣(なのり)を
謡い、お囃子付きの待謡を謡うと、いよいよ赤一色の装束
を纏った猩々が登場した。

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大膳神社の奉納能とは祭神の御食津大神(みけつおおかみ)
と日野資朝卿、大膳坊賢栄の三柱に捧げる神事として演じら
れる能である。日野資朝(すけとも)は1324年の正中の変で
後醍醐天皇を支えて倒幕計画に関与した重要人物であった。
計画は首謀者の一人の密告によって露見し、六波羅探題の急襲
で鎮圧された。資朝は佐渡へ配流となり1331年元弘の乱後に
処刑された。大膳坊賢栄は鎌倉時代末期雑太城(さわだじょう)
周辺にいた山伏と伝えられる。資朝の遺児阿新丸(くまわか)
が父の最後を知り、本間山城守の弟・三郎を討った際に逃亡を
助けた人物として語られる。これに激怒した本間山城守によっ
て大膳坊賢栄は処刑された。その後本間山城守は深く後悔して
資朝と大膳坊の霊を鎮めるために大膳神社に合祀したと伝えら
れている。大膳神社は能・檀風ゆかりの地として知られている。

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日野資朝卿の墓がある日蓮宗の妙宣寺は中世に佐渡を支配
した守護代・竹田本間氏の居城・雑太城(さわだじょう)
があった跡地に建立された寺院で、境内の一部には空堀の
遺構がある。軍記物「太平記」を出典とした謡曲「檀風」
で知られる日野資朝卿を偲び、命日の7月3日に「日野公
忌例祭奉納能」が行われる。本堂の畳敷の間に老松の背景
を添えた舞台で能・狂言が奉納されるのである。
大膳神社の能舞台もどちらも無料で間近で鑑賞できるのが
よろしい。どちらも貴重な文化体験である。佐渡の人は信
心深くて律儀で優しい。そういう所が好きである。
7月の資朝忌供養能の頃また佐渡を訪ねてみたいと思う。
(おわり)

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2026年5月 2日 (土)

鬼太鼓

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(俳句)島中の鬼太鼓(おんでこ)はねる春祭
年中行事で4月15日に一斉に春祭が始まった。順徳院を祀る
真野宮のある真野町も今日18日に桜祭りが土曜日と重なって
公園は出店と人で溢れていた。予約していたので歴史伝説館
の中の食堂で名物のブリかつ丼を頂いた。盛りがよくて美味
しかった。昼食後、人込みを避けて駐車場を出た所で鬼太鼓
舞を見つけた。舞手とリズムを打つ鼓手の太鼓音が心地よく
て間近で見入ってしまった。舞う型が集落ごとに流派が決ま
っているそうである。真野は潟上型に属し能舞を取り入れて
神事色が強くて優雅であるという。私は長拳や蟷螂拳に似て
いると思い、そのルーツをAIに聞いてみた。素早い引きや伸
びの動きが共通しているが長拳蟷螂拳の套路は実戦の為、鬼
太鼓は祭礼芸能として鬼が神の使いとして舞う為のものでル
ーツは違うという回答であった。一と舞い終って、面を上げ
て汗を拭っているのは青年の顔だった。今度民宿の主人に頼
んで門付けの鬼太鼓の舞をじっくりと見てみたいと思う。
(おわり)

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2026年4月29日 (水)

越敷神社

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(俳句)延喜式神名帳の春の宮
鳥越文庫を後にして村道を走ると間もなく道沿いにある越敷
(おしき)神社に着いた。「式内村社越敷神社」の石柱と四脚の
鳥居の扁額には「越敷(おしき)社」の文字が。社頭には由来書
の掲示板が立っている。

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主祭神の埴安神(はにやすのかみ)は日本神話に登場する
「土・粘土・陶器・農耕」を司る神でイザナミの死の際に
生まれたとされる土の神である。(ウィキペデキア)
応神天皇として祀られる誉田別尊(ほむたわけのみこと)
は和風諡号(しごう)贈り名である。誉田別尊が祀られ
ていることで、越敷神社は「武運・技芸の上達」「学問成
就」などの御利益を持つ神社としての性格も帯びる。西橋
氏が猿八に住んで人形浄瑠璃猿八座をここで立ち上げた動
機が分かる気がする。しかしもう一つ不思議に思うことが
ある。なぜ経塚山の麓の標高300mの9世帯人口18人の過
疎の村に「佐渡九社神の第七位の大社」たる式内の格式高
い古社に名を連ねているのであろうか。

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(俳句)宮鈴をぐわらんぐわらんと春惜しむ
猿八という地名には「小丹生(おにゅう)」=丹(朱)を産
する土地という語源説があり、これが最有力とされている。
この説は鉱物史学者・松田寿男氏による研究に基づく。松
田氏の説では古代~江戸初期にかけて猿八は長く無住だった。
その間、朱(丹)を産する土地=袁入(おにゅう=小丹生)と呼
ばれていた。それが後に「猿八」という字に置き換わった。
つまり猿八という地名の背景には「丹(にう)=水銀」の産
地であった歴史があった。丹とは何か?丹(朱)=辰砂という
鉱物である。辰砂には水銀(Hg)が含まれる。古代から顔料・
祭祀・防腐などに使われた重要資源である。猿八は水銀を含
む朱の産地=丹生(にう)地帯として認識されていた。
(丹生の研究;歴史地理学的に見る日本の水銀(松田寿男著
早稲田大学出版部発行)(アメーバブログ)

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(俳句)美しき島の蛙の国となる
社殿脇にあった蛙の石碑はおそらく埴安神の従者としての蛙
であろう。蛙は田んぼの土の中で冬眠し稲の害虫を食べてく
れる。
(佐渡広場 佐渡の神社13 越敷神社)
越敷神社は「島民が選んだ島の宝・「佐渡百選」の一つに数
えられている。
社殿は柱と戸を取り外すと能舞台になる珍しい造りになって
いるという。2016.7.31に[能と人形浄瑠璃、サックスの共
同舞台;演目能柏崎ー能舞台を彩る光の共演」という珍しい
イベントが開かれた。今年もイベントは開かれるのであろう
か。薪能の幽玄の美の世界を見てみたいと思う。
(おわり)

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2026年4月27日 (月)

鳥越文庫

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(俳句)猿八の美男文弥に春灯
夕暮れの滝を見た後、のどが渇いたからきっとテラスで棚田
を眺めながら珈琲を飲める喫茶店が鳥越文庫の中にあるだろ
う等と思って訪ねたのだが…
鳥越文庫とはガイド氏によれば早稲田大学の教授で演劇研究
の第一人者の鳥越文蔵氏が蔵書2万冊を寄贈する先を探して
いたところ、鳥越教授の生徒だった西橋氏が猿八に住んでい
ることが判り、西橋氏を介して猿八に鳥越文庫が誕生するこ
とになったのだという。
旧小倉小学校猿八分校の跡地の隣に新しく図書館が建設され
た。それを機に1995年(平成7年)に西橋八郎兵衛氏が座長に
なって文弥人形猿八座の旗揚げがされた。

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ガイド氏が説明中の腕の下に見える写真の下の小さな説明書
にはこう誌してある。ー
「弘知法印御伝記」復活上演(新潟県柏崎市)
前列左から鳥越文蔵、ドナルド・キーン、西橋八郎兵衛
江戸時代初期に演じられた説教浄瑠璃のひとつで南北朝時代に
即身仏となった弘知法印伝説をもとにしている。1962(昭和37)
年に鳥越文蔵がロンドンの大英博物館での調査で1685(貞享2)
年の正本を発見した。日本文学者ドナルド・キーンが復活上演
を提案。2009(平成21)年 越後猿八座(代表西橋八郎兵衛)が
人形浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記」として全段の公演
を柏崎で行った。
即身仏となった弘知法印は長岡市寺泊の西生寺に安置されている。

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壁に架けられた4葉の写真ー左上は文弥人形の頭(かしら)を
左手に持った文弥人形の遣い手、名人の葛原翁が右手を指し出
して、技の話を語るに余念がない一とコマであろうか。右上は
三味線を演奏中の文弥太夫。文弥節は「泣き節」と言われる情
感豊かな太夫の声の味わいが文弥の魅力の大部分を占める。
右下は人形師の和尚とある。お寺の勤行の後に文弥人形の制作
に励む和尚さんの姿であろうか。左下の10種類の頭(かしら)
のすっきりした眉と目、きりっと結んだ口元は役柄に応じて、
生き生きとして端正で品位と知性さえ感じる。

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以前新潟で公演された「弘知法印御伝記」を見た。一種洗練
された舞台でスマートな都会人好みの演出が光る印象を憶え
ている。その後佐渡へ渡り、猿八座に刺激されて女性だけの
常盤座や野浦集落の公民館で双葉座の上演を見たが、どれも
皆泥臭い地元芸能のように思えた。

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テラスで喫茶等とは無縁の真面目な図書館であった。
蔵書は浄瑠璃の専門書ばかりに音をあげて、廊下の奥の窓辺
に外を見たら記念碑が見えた。「猿八校百周年」の文字が読め
た。図書館の隣には旧猿八分校の古い校舎と体育館があった。
外から手をかざして中を覗いた。懐かしい昔の教室風景であ
った。佐渡は人口減少が著しいと聞いたが一方で、猿八地区
に島外からの移住者が増えているそうである。島外から新し
い視点の移住者が増えれば、この真面目な図書館にもテラス
の喫茶が出現する日も近いかもしれない。そんなことを思い
ながら鳥越文庫を辞去した。
(おわり)

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2026年4月24日 (金)

夕暮の滝

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4月18日(土)くもり
(俳句)その奥に雪解の滝の美しき
始発のフェリーが両津港に着くと直ぐに小佐渡の猿八を
目指した。旧新穂町の商店街を過ぎ、佐渡縦貫線を走る。
人家も途絶えた頃、「鳥越文庫」の小さな案内板を見つけ
て山手の道に入る。2、3の集落を過ぎ次第に高度を上げて
九十九折の道に差し掛かると人家が現れた。庭先に沢山の
白花を咲かせたこぶし大樹がきれいだ。棚田に軽トラが止
って田打ちが始まっていた。ここが猿八地区の棚田のよう
だ。舗装道路端で車を降りた。荒れた林道をしばらく歩き
ガイド氏の後を追って「夕暮れ滝」へ続く山道に入った。

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(俳句)滝落ちて雪解の沢の木々芽吹く
訪ねる人も少ないのだろう。咲き雪崩れるニリンソウの群落
の中を歩いた。ニリンソウに混じってトリカブトの葉を見つ
けた。どちらもよく似ているので山菜採りはうかつに手を出
せない。雨が降ったのだろうか、ぬかるんだ所や崩落箇所も
あって立木につかまったりして慎重に歩いた。アオキの群生
は実の鮮やかな赤がとてもきれいだ。経塚山の源流の竹田川
に沿うへつり道の木々の芽吹きが始まっていた。

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苔むす大岩の上に根付いたウスバサイシンの花を見つけた。
葉っぱの下に隠れて見えなかったが葉っぱをめくったら特
徴的な花が現れた。花弁の形からカンアオイの仲間だとわ
かる。根茎は生薬に利用されるようだ。

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滝の名は「夕栗の滝」と思っていたが、「夕栗」って何?
ガイド氏の話では「地元の人は「夕暮れの滝」と言っている。
村の古書にもそう書いてある。」というのでどうも「夕暮れ滝」
説が正しいように思える。「夕暮れの滝」という言葉の響きが
心地よくて名の由来を、宗教的な背景?あるいは歴史的なエピ
ソード?とかいろいろ勘ぐってしまう。「夕暮れの滝」を一目
見た時、弥彦山の滝ノ沢の黒滝に似ているとふと思った。夏
フリーでシャワークライムをしたらさぞや爽快だろう、とか
いろいろ思いながら「夕暮れの滝」を後にした。
(おわり)

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2026年3月14日 (土)

春暖簾

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3月12日(木)雨時々霙
(俳句)久闊のとろみの味や春暖簾
のれんを分けて入った店は混んでいた。一つだけ奥の席が空
いていた。「何にしますか?」と女店員、「湯麵とろみ」を。
「湯麵にとろみありませんよー」と女店員。厨房からこっち
を見ていた店主が「ニッ」と笑い「あいよー!」コロナ以降
初めて入ったのだが、覚えていてくれたことが嬉しかった。
水溶き片栗粉の熱々のとろみスープをふーふー吹きながら大
汗かいて食べた。お代は550円。コロナ以降に50円上がった
ようだ。外に出ると行列が。時折降るみぞれ空に汗は一気に
冷めた。図書館帰りにまた来よう。
(おわり)

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